1973年9月3日(月)軽犯罪法違反で起訴の5.17被告2人の第2回公判

提供: 19721108
移動先: 案内検索

【概要】

5.17総長団交の際、構内に向かった部隊は機動隊の規制によって外堀公園へ誘導され、学内に入れなかった。その途中で2人が職質を受け、凶器準備集合罪で逮捕されたにもかかわらずその後軽犯罪法で起訴された。第2回後半では、検察側の証人によって逮捕の根拠となった点が証言されたが、逮捕の正統性には疑問が残った。

【検察側証人の発言】

5.17に凶器準備集合罪で逮捕され軽犯罪法違反で起訴された2人に対する第2回公判が開かれた。その模様は早稲田キャンパス183号に詳しい。要約すると以下の通りである。
「この裁判にあたっては、大学・教育問題、現行裁判制度を見ていかなければ行為の背景にある思想を語ることはできない。すなわち、川口君の死を引き起こした背景には、大学の学内秩序の象徴である10.27告示と11.17告示があり、その法的根拠は大学立法である。それにもかかわらず川口君の死後、大学は何ら具体的な対処はせず、ロックアウトと告示でしか対応していない。そうした中で克ちとられた5.17総長団交は、学生による唯一の糾弾の場であった。それが、前日になって『学生間の衝突が予想される』とした1枚の告示によって中止された。村井総長の確約は反故になったのである。
この中止について、この日検察側証人として証言した萩原証人(戸塚署警ら課長)は『革マル派の圧力によって中止になった』と述べている。17日の警備体制については、前日16日に部隊編成が行われていたことを述べた上で『この日の警戒は、反革マル派が革マル派を攻撃するとの情報によりなされ、学生間のトラブルにより負傷者ならびに建物の破壊を防ぐ目的でなされた。直接行動としては、反革マル派を早稲田大学周辺に近づけないことを目的とした』と発言したが、情報の出所については明言しなかった。
2人の逮捕については『甘泉園公園を警戒中に50人位の学生風の集団が横を通り過ぎていった。その後から重そうな紙袋を持った3人の男が前の集団に追いつこうとするかのように急ぎ足でやってきたが私たちを見ると逃げた。その重そうな紙袋の中にはたぶん鉄パイプが入っている。鉄パイプが入っているとすれば凶器になる』と判断したという。これでは逮捕の裏付けにならない。『重そう』という印象と『鉄パイプ=凶器』を結ぶ必然性がないのである。この曖昧さによって、凶器準備集合罪ではなく軽犯罪法での起訴となったのである。
こうしたことから、警察および検察の意図が被告2人の犯罪性にのみ向けられているのではなく、現在早稲田で進められている運動そのものに向けられていることにほかならないと判断できる。
萩原証人は『警戒警備するにあたり大学の要請なしでも署長の判断により大学内のトラブルを規制する』と証言した。5.17当日に大学から要請があったかどうかについては終始曖昧にしか答えなかった。」
第三回公判は9月26日に開かれる予定だったが、三越襲撃事件で被告の一人が22日間勾留されたため10月22日に延期された。


【リンク】