1973年6月30日(土)革マル系文連総会を粉砕。サ連と新執による早稲田祭実行委結成。

提供: 19721108
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【概要】

行動委の部隊と革マルが衝突。革マルの文連総会は中止となった。また、サ連と新執による73年早稲田祭実行委員会が正式に発足した。

【この日のできごと】

◎武装した叛旗派、反帝学評、行動委(ノンヘル)が3号館付近に集結。
■11号館地下から革マル60名が鉄パイプで突入したが、追い散らされて11号館に逃げ込む。予定されていた革マル系文連総会を武装衝突で中止にさせる。
◎73年度早稲田祭実行委結成集会(サ連、新執系)が11号館前で開催され、正式に発足。


【革マル文連総会を粉砕】

「6月30日、本部構内において革マル派学生と行動委・反帝学評・共産同叛旗派学生との間に衝突があり、20名余りの重軽傷が出た。そのため午後からの授業は中止となり全学ロックアウトとなった。この日は文連総会が予定されており、その文連総会をめぐり、総会を粉砕しようとする行動委と、防衛しようという革マル派との間の衝突は当然予想されていた。12時頃から鉄パイプで武装した行動委40名、反帝学評60名、共産同叛旗20名の学生が3号館周辺に集結しているところに、11号館地下にいた革マル派学生約60名が鉄パイプでもって突入してきて数分間の乱闘の後、革マル派は分散され、11号館に逃げ込み、11号館に内バリを築き中にたてこもった。11号館にたてこもった革マル派を追って、反帝学評などが4階まで追いつめ、中にいた十余名の革マル派学生に負傷者が出た。この間、一文、二文、政経、教育各執行部、11.8C連によって組織されていた早稲田祭実行委(準)が正式に早稲田祭実行委員会で発足された。しかし、学内で情宣もできないという現状の中でどのように各サークル・クラスをまとめていくかというのが今後の課題となろう。このような学内の情勢に対し当局は、11時50分政経学部、しばらくして商学部が休講となり、1時全学休講、ロックアウトの措置をとった。」(早稲田キャンパス181号※一部表記修正)
毎日新聞夕刊では「早大また内ゲバ」の2段見出しで次のように報じられた。「30日午後零時半ごろ、東京都新宿区戸塚町の早大本部4号館前で、革マル派学生約40人と青ヘルメットの反革マル派約50人が鉄パイプでなぐり合い、双方で11人のけが人が出た。早大ではこの日、革マル派が主導権を握っている文連総会が予定され、反革マル派も本部構内で集会を開いたため、両派が衝突したとみている。衝突は約20分間続き、革マル派は学外へ逃げたが、反革マル派は革マル派が残した旗に火をつけるなどして11号館前で気勢を上げた。大学側は本部構内への立ち入りを禁止、午後の講義を中止した。」

【早稲田祭に向けて】

11号館前で集会が開かれ、5月30日に、11.8サークル連絡会議(サ連)を中心に結成された73年早稲田祭実行委員会準備会が、一文、二文、政経、教育各学部の各執行部の参加を得て正式に結成された。
5月に出されたサ連による事前の招請文では、第16回(69年)以降の実行委員会を批判。「革マルが4年間行ってきたような自分達だけで実行委を結成し、参加諸団体は参加とは名ばかりの場を利用するという形態を拒否する」「実行委員会の原則に立って各団体が対等の立場で実行委を構成し、参加諸団体の討論の深化により早稲田祭の方向を決定し早稲田祭の基調を作っていく」と決意を述べている。
すでに革マルは5月10日に解散総会を開いて第19回早稲田祭実行委員会を解散し選挙管理委員会を選出、5月29日には結成集会において第20回早稲田祭実行委員会を正式に発足させた。その後発行された早稲田祭新聞には「民青を支持するものも『行動委員会』を支持するものも革マル派を支持するものも、分け隔てなく参加する全早大生の統一的早稲田祭を提起するものである」と主旨が記されている。
これらの動きに対して法学部自治会執行部の民青は、態度を明確にしていなかった。その後法学部で早稲田祭実行委員会が結成されたのは7月3日で、次のような主旨が示された。
「実行委編成の方針としては、法学部を中心に11.8以降形成された7学部新執行部および生協実行委員会を結集するとしている。また各サークルに対しては、『サークル代表は文連の不正常な状態、未組織サークルが多数存在することなどから、参加サークルの結集のもとにサークル実行委員会を結成し、そのなかで互選により代表委員を選出する』としている。」(早稲田キャンパス182号)


早稲田祭に関してその後の動きを追うと、1997年8月に早稲田祭実行委員会と革マル派の癒着と資金の横流しが問題となり1999年まで早稲田祭が中止となった。このことは新聞にも報じられ、「構内入場に際しパンフレット購入(400円)が課せられたこと」「決算報告が曖昧であったこと」の2点が問題とされた。2000年になってようやく広研(編註:広告研究会?)、放送研究会、雄弁会他を中心に“新生早稲田祭したくスタッフ”による「早稲田白書」がまとめられ、開催への一歩が踏み出された。白書の中では、早稲田祭が中止に追い込まれた原因として「開催自体が目的化してしまった」ことがあげられた。「早稲田祭とは何か」「その存在意義とは何か」「なぜ早稲田に学園祭が必要なのか」といった根本的な問いがないがしろにされてきたというのである。
復活の経緯については「早稲田祭復活への軌跡」に詳しい。
http://waseda-ad.com/wasead/tag/早稲田祭/
さらに早稲田ウイークリーは1998年4月9日号から4回連続で早稲田祭を特集し、中止から再生までの軌跡を検証している。
http://www.waseda.jp/student/waseda/wf7.html
1973年当時のパンフレット代は200円(未確認)であったが、その収入が党派にとって貴重な資金源だったであろうことは想像に難くない。


【リンク】

革マルの早稲田祭ねつ造に対する糾弾声明