1973年5月14日(月) 法学部の学生集会で総長団交の可否をめぐって討論。一文樋田委員長が革マルに襲われる

提供: 19721108
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【概要】 法学部学生集会では、5.17総長団交をめぐって、確約に至る手段を認められないとする執行部に対し行動委が対案を提出し、1年生を中心にこの機会を有効に使うべきだという意見が多く、加熱した討論が繰りひろげられた。出入りが多く定足数を下回ったため、学生集会となった。また、夜には、集会に出た一文の樋田委員長が会場の外で革マルの待ち伏せに遭い、重傷を負うという事態が発生した。


【この日のできごと】

◎一文2年生連絡協議会(仮称)を8号館ロビーで開催。
◎22号館で法学部学生集会1730名(定足数2000名)。
◎一文樋田委員長が襲われ重傷、書類等も盗まれる。
■革マル4、8、16、22号館に7回の波状攻撃。


【1年生の発言が目立った法学部学生集会】

この日予定されていた法学部学生大会は、1730名が参加したものの定足数2000名には至らず、学生集会となった。この日の議題は、翌15日からの4日間ストをはじめ、17日の総長団交参加への可否などであった。集会で5.17総長団交参加のアピールを終えた一文執行委の樋田委員長が、革マル派の暴行により負傷したとの一報が入るなど、緊迫した空気の中で討論が続けられ、7時間後の9時過ぎ、5項目の大会決議を上げて集会は終わった。
集会の詳細について早稲田キャンパス178号には次のようにある。
「集会は、5.8以降の一連の学生大会のうちで一番多くの学生を結集したものとして、8日当日に早くも5.8団交は形式性を欠き正式なものとして認められないと『スジ』論を全面に押し出していた法学部執行部に対して、対案書を出していた行動委がどう対応し、それに学生がどう反応していくかを一つの回転軸として進んでいった。
まず、論議に先立つ議長団選出では、全部で6名が立候補し、投票に持ち込まれたが、開票の結果、執行委、行動委が各1名ずつ、他に女子1名がそれぞれ仮議長団(学生大会成立後、慣例で自動的に議長団となる)として選出された。
この日の討論の中では、1年生の数クラスの学生が発言に立ち、(中略)イキサツはともかくとして、克ち取られた一つの成果として8日の団交を確認し、5.17団交を当局の責任追及の場として積極的に利用していくとする声が多数を占めた。
一方、これに対して執行部側は、『5.8団交はカッコつき団交であり、学生の中の一部が、学生無視の態度をとりつづけてきた当局と交わしたボス交であり、執行部はこれを正式団交とは認めない』という5月8日からの原則論をタテにして『われわれは、この間、正式に成立した自治会を含む7学部自治会連合名で総長団交を追求していく』と説得に努めたが、1年生を中心とする多くは、これは原則論であり『スジ』論だとして、執行部の態度に柔軟性を求める方向に傾いていった。
(中略)
全体として特徴的だったのは、比較的に『政治的無関心』とされている法学部において、1年生の意見が数多く出され、“1年生集会”と思わせるほど活発に発言したことだった。
(後略)」
午後1時過ぎ始まった集会は、最高時1730名を数えたが、中途退出者が多く、集会決議採択時には四百数十名となった。採決された集会決議は、「小選挙区制、筑波法案に反対し、田中内閣がファッショ的暴挙によって自民党独裁を狙うことを断固として阻止するために総力をあげて奮闘する。社共公等18団体が呼びかける5.15、5.18-19の三派にわたる統一行動に合流しよう」「総長団交に法学部総力をあげて結集し、勝ち取ろう」「団交の内容を討論し、クラス団実委、学年、学部団実委を創出しよう」「再度、5.18に学生大会を開催しよう」の4項目で、「5.8団交を認めない」「執行部の自己批判を求める」の2項目は否決された。
なお、この記事の中で、1月に実施されたアンケートに触れた部分がある。1年10組が776名の1年生を対象に行った大学の自治や法学部自治会についてのもので、詳細は割愛されたものの、「執行部の支持率15%、不支持41%、無関心28%」との数字が掲載されている。アンケート結果はパンフで配布されたとあるが、原本は見つかっていない。

【法学部行動委】

後日、法学部の行動委だったメンバーが当時の状況について、次のように語った。
「法学部では、民青系のクラス連絡会議が成立しており、何かやろうとする時には、民青を通さないと声が上げられない状態でした。それに飽き足らないメンバーが、独自に行動委員会に結集しました。メンバーは一番多い頃で25~26人位でした。メンバー構成は、全共闘を経験した人たちが4人、党派の人が1人、その下に早大ベ平連系の人たちが7~8人、残りがクラス連絡会議で飽き足らない72年入学の1年生で10人前後いました。73年の新入生も5~6人が加入しましたが、残ったのは1人でした。
8号館地下は特殊な場所で、赤軍系から何から種々雑多な人間がそこにはいました。ボクシングクラブなどと勝手な名前を付けて部落研なども部室を持っていて、各党派のメンバーが出入りしていました。8地下はいわば旧全共闘系のたまり場でした。その雰囲気がそのまま行動委員会にもあって、党派は絶対に嫌ということはなかったですね。
法学部の場合、クラス活動家というのがいないんですよ。民青が嫌だったら行動委かサ連へ行けということになる。中間帯がない。積極的に勧誘しようがない。クラス情宣へ行くのは12月までで、これ以降は行っても無意味だからクラスには行かない。旗だけは目立つようにでかいのを作ったけれど、主に他学部の学大の支援に回るというのがほとんどだった。
キャンパスに入れなくなった73年5月以降は、連日三鷹寮への泊まり込みを繰り返していました。最初は泊まるのが10人ぐらいいるんですよ。それがしだいに5人ぐらいに減っていくんですね。『きつい』と言い始めて、『(革マルに)撃沈されたら休める』と冗談を言い合っていました。革マルの喉元に刺さったトゲみたいに居続けてやろうというのが、5月に大衆団交に負けてからのぼくらの励みのようなことでした。最後は疲れ切ったというのが、正直なところです。」


【一文樋田委員長遭難】

夜8時頃、学生集会で連帯のアピールを終えた一文の樋田委員長が22号館を出た所で革マル派の集団に襲われ、顔や足に重傷を負うという事件が発生した。翌日の一文執行委員会有志のビラによれば事実経過は以下の様である。
「昨日19時45分頃、樋田委員長は法学部の学生大会において法学部の学友に団交参加へのアピールをした後、22号館の前を4人の学友と共に歩いていました。それを見つけた革マルは『樋田だ!樋田を狙え!』と叫びながらきわめて計画的に委員長を取り囲み、なぐりかかり、押し倒し、うずくまったところを足で蹴とばし、下半身を鉄パイプで乱打するなど、非人間的で野蛮なテロルを行ないました。その結果樋田委員長は頭こそなぐられなかったものの、現在半身不随で入院、全治2~3週間という傷を負わされました。」
別の書記局のビラには、襲った革マルは20名で、樋田委員長の左目、右足、顔面が血まみれになったとある。また、襲撃の指揮を執ったのは早大の革マルで、実行部隊は他大学の革マルだったとの本人の証言がある。


【リンク】

樋田委員長重傷!
革マルのテロルを許すな!