1973年4月1日(日)入学式へ向け執行部と団実委の意志一致ならず。

提供: 19721108
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【概要】

翌日の入学式を前に、夕方5時半から東京八重洲口の国労会館で「4.2新入生連帯全学総決起集会」の準備集会が開かれた。それに先だって一文では、31日に引き続いて自治委員集会で入学式当日の戦術を話し合った。主な課題は、村井総長から団交の確約を取り付けることと、新入生に川口君虐殺糾弾運動への連帯をアピールすることの2点であったが、新執行部と団交実行委員会との意志一致には至らなかった。

【この日のできごと】

新入生連帯と総長団交に向けた「4.2全学総決起集会」の準備集会。


【執行部と実行委員会の関係】

実行委員会とは、たとえば「××上映実行委員会」や「早稲田祭実行委員会」のように、課題に応じて組織されるものであり、そこに参加するメンバー自身が実施に向けて行動する組織である。それに対して執行委員会は、各クラスを代表する自治委員によって選出され、話し合いによってクラスの総意を実現するための代行機関としての役割が大きい。(あるいは逆に執行委員会として方針を打ち出して、各クラスに諮る場合もある。)そうした役割の違いから互いの位置づけについての認識が異なり、意志一致がしにくくなっていた。

【温まる間のない学部長の椅子】

12月15日付で浅井邦二第一文学部長、外木典夫第二文学部長が、11.8の責任をとって辞任。後任は年度末の3月31日までという条件付きで、一文が本明寛教授、二文が守屋富生教授となった。一文では3月15日付で次の学部長に印南高一教授が就任したが、学生担当教務主任が決まらず、1ヵ月後の4月中旬に辞任を申し出た。4月1日には、二文の学部長に小山宙丸教授が就任した。
一方、大学当局でも3月から4月にかけて動きがあった。第一次闘争以来の学生担当であった神沢惣一郎学生担当常任理事が、体調不良を理由に3月3日付で辞任。後任には広報担当理事だった押村襄教授が4月16日付で就任した。学生問題のエキスパートとされていた神沢教授の辞任にともなって、政経学部の渡辺真一学生部長が辞意を表明するなどの動揺があった。

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