1973年3月13日(火)二文当局が自治会承認の条件を提示。教育では教場試験取り止め。

提供: 19721108
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【概要】

2月10日に学部団交で学部長の新執行部承認の確約書を取り付けた二文の臨時執行部に対し学部当局は、クラス委員による執行部選出等の条件を提示した。また、波状ストに入った教育学部では、4年生の教場試験をレポート提出に切り替える旨の発表があった。

【この日のできごと】


【執行部の選出方法】

二文当局が示した執行部選出の方法は次の通りである。(※2月10日の記事にも掲載)
①新執行部が、学生大会決定事項につき、学部投票等の方法で、学部自治会員過半数の支持を確認すること。
②クラス委員(自治会委員)選出のための公正な選挙管理委員会の設置。
③選挙期間・方式等をあらかじめ明示した上でのクラス在籍者過半数が出席することを条件とするクラス委員選挙及び公開の開票。
④クラス委員総会において多数の支持をえた執行部の選出。
⑤執行部による、全自治会員の総意を常時反映しうるような自治会規約案の提示と、その全自治会員の絶対多数による承認。
この方式は、在校生によって選ばれたクラス委員による投票等の代行を前提としたもので、11.8以前に革マルが握っていた第一・第二文学部、商学部、社会科学部は、選挙方法に不明な点があったものの、この条件に沿った自治委員選挙を経て選出された執行部であった。
学内の状況については、「革マルは自治会・文連私物化とそれをテコとした『イデ闘』『恫喝』『テロ・リンチ』の手段により、全ての闘う部分、あるいは革マルの論理と相容れない部分に対しては『反自治会活動』『反文連活動』のレッテルを貼り、自らの圧殺行為を正当化し、当局の学内管理抑圧体制を維持せんとする学内機動隊の役割を担ってきた。早大で一人の学友が殺されたことは、69年以降一切の反対勢力を暴力的に圧殺し、そのことによって自らの『党派的』拡大を目論んできた革マルのファッショ的支配が当局の管理抑圧体制には何ら手を触れることなく、学内においては戦術的な左翼性を誇示してきた早大の否定的状況から必然的に引き起こされてきたものである。そうであるが故に革マルがいくら『戦闘的自治会』『闘う文連』を誇示しようが、それらは革マルの活動以外は一切否定し、あまつさえ革マルの党派的分断や囲い込みを前提とする一切の他の運動の学内登場や情宣を暴力的に圧殺することによって、またその『戦闘性』の主観性は誰の目にも破産してしまっているのである。」(初出:「革マル文連を粉砕し統一文連創出を~」)と、1974年4月19日付で教育学部学生自治会旧執行委員会有志が出した『我々は早大教育学部自治会執行委員会の解散をもって君に連帯する!』に記されている。
教育学部では、1月23日に教育学生自治会常任委員会(永井委員長)を自治問題について話し合う唯一の機関と認めると専任教員会が発表したが、その後、新年度に再選出された執行部を承認するという、いわゆる「2.22」見解によって承認への条件を強化したという経緯があった。
さて、当局の承認条件に対して二文の臨時執行部がどのように対応したかについての詳細は資料がないため不明である。ただ、前出の『我々は~』の中に次の記載がある。「各学部が新自治会執行部を選出していく中で、二文(特に革マルの支配が強かった)では闘いを自治会運動として集約していくことに対する疑問が噴出する中で意図的に新執へ移行しなかった。」


【なぜ自治会運動だったのか】

川口君の死によって学内に広がった革マル自治会排撃の動きはまた、新たな自治会創設という問題を提起した。
「72年11~12月期の川口君虐殺に対する連続的な大衆反乱は、自らの運命は自らの手で切り拓いていくという直接行動として(文字通り一切の代行主義を排して)表現されていった。そして、そうした一切の代行主義を排したところで成り立つ緊張の中にこそ、既成自治会が持つ中央委員会方式※としての負の側面(ポツダム自治会の執行部選挙に数十名の代議員をオルグして勝利し、その『形式的な権力』を有効に使って学生大衆を左翼化あるいは自己の党派の下へ結集させようとするそうした活動形態)を止揚する萌芽があったし、それは文字通り革マル全学連『自治会大衆』運動の破産宣告」でもあった。そこからどこへ向かうのか…。「共同しての闘う集団の編成への模索」だと前出の『我々は~』は続ける。「日共=民青をも含めて自治会機構を私物化し『みんなの代表』面をする者への即時的な苛立ちをバネとしながら、何から何を何処へ向けて解放するのかという闘いのイメージの曖昧さと、現実の側からくる活動資金源や活動空間としての革マル自治会(文連も)を粉砕することが革マルの存在基盤を奪うことになるという発想の相互瞞着の中で、それは自治会運動として立てられていった。このことは、前者の闘いのイメージの曖昧さは闘う主体の弱さであり、(中略)早大管理・支配体制を語る時の〈革マル―当局―私たち自身〉の『私たち自身』を厳しく問題にすることであるということと、後者の革マルの存在基盤を奪うことについては、革マル自治会(文連)を否定し我々の自治会を作るという、機構や形式を我々の側に獲得すると立てることが、主体の弱さの克服を外的なものの中に視てしまい、自らの自らに対する格闘を放棄してしまうという傾向を持たざるを得ない。」
※ここでいう中央委員会方式とは、自治会が機構的に学生大会=最高決定機関-自治会員-クラス自治委員-自治委員総会-常任(執行)委員会-三役という代行制度をその本質として内にもっているということであり、60年安保以降の革マル、日共=民青を頂点とした党派自治会運動においてはこうした機構が党派的に利用される結果、大衆運動の発展を逆に阻害してしまった。(「『我々は早大教育学部自治会執行委員会の解散をもって君に連帯する!』より)


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