1973年2月3日(土)教育で学生大会。一文221教室で自主講座「山村政明シンポジウム」を開催。

提供: 19721108
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【概要】

教育学部の学生大会では試験粉砕への戦略が議論され、波状ストによって対抗する旨の意志一致が図られた。一文では、スロープ上で二年生連絡会議の支援を受けて、革マルを鬼に見立てて早稲田から追い出す「豆まき大会」を実施。また221教室では、自主講座「山村政明シンポジウム」が同君の友人主催で行われた。


【この日のできごと】

◎教育学部学生大会(約1300名)は1月26日から2月4日までの10日間ストに続き、2月5日から2月10日までの波状ストを決議した。学部当局は「試験の日程を5~12日に延期して実施」を決定し、掲示して試験強行の構えを見せた。
◎一文スロープ上で「豆まき大会」(豆まき大会実行委員会主催、二年生連絡会議支援。)
◎「山村政明シンポジウム」(山村君の友人が主催。文学部221教室)が行われた。


【「山村政明シンポジウム」のビラより】

自主講座・シンポジウム「山村政明…在日韓国人の生と死」を実施した一文自主講座貫徹委員会からは次のような呼びかけがあった。「(前略)山村君※の死は、当時単なる『党派闘争』内の人間の破綻として闇から闇へと葬り去られていった。我々はここで、在日朝鮮人としての彼の死、出入国管理法問題、我々の差別意識、民族問題等々を含み込んだ彼の死を早稲田解放の闘いの中でとらえ返すと共に、川口君の死を再度とらえ返し、闘いが自治会問題のみに収斂されんとしている今、闘いの深化・多面化として“彼の死”の孕む問題をたぐっていこうではないか。」
※山村(梁)政明:1945年6月生。9歳の時に一家揃って帰化。苦学の末1967年第一文学部に入学するも、経済的理由から第二文学部に転部。二文で暴力一掃・自治会民主化を唱えて革マル執行部と対立し、多くの仲間と共に暴力的に排除され、学内への入構が不可能となった。1970年10月6日、文学部前の穴八幡神社境内で「抗議・嘆願書」を残して焼身自殺を遂げた。大学当局は彼の死を黙殺し、革マル派は彼の死の真相を様々なデマゴギーで隠蔽しようとしたが、川口大三郎君と同じように革マル派から死を強いられた者として、山村(梁)政明君の存在とその死とは闘争の中で幾度となく顧みられることとなった。(参考資料:山村政明遺稿集『いのち燃えつきるとも』大和書房1971年、村上也寸志著『戦後青春への挽歌』亜紀書房1982年)

【山村政明君の死が訴えたもの】

山村君の死は、自治会を私物化した党派(革マル)による排除の論理がもたらしたものであり、そうした学内状況を放置したことが、2年後の川口君の死に繋がった。
1973年3月10日付『早稲田キャンパス』の座談会で当時の学内状況が次のように語られている。
「学内で入管(編註:出入国管理法問題)を語る者、あるいは部落を語る者は今まで革マルにレッテル貼りされ、闇に葬り去られていったことに対し、今堂々と部落研の連中は個的であれ端緒的であれ語りつつあるし、二文の学友なんか本当に『梁政明』を語りつつあり、一文でもそんな動きがある。(一文行動委)」
「僕らなんかのクラスでも山村君の問題とかあったわけです。(中略)だけどみんな山村君が自殺したことは知らない。革マルは山村君の場合でも非常に歪曲して言うわけですよね。あれはどこかのセクトが山村君の遺書を書き変えた等々言って、みんなをわからなくさせる。(二文執行委)」
また、一文新執行部委員長H君による山村君への言及が新入生歓迎パンフ『彼は早稲田で死んだ』にある。
「過去においてね、例えば『いのち燃えつきるとも』っていうのを読んでみるとね、そうするとその時でもやっぱりあったんだね、同じようにね。傷ついて倒れて死んでいった人間もいれば、学校に留まった人間もいる。でその段階でもね、彼等はここでたとえ負けたとしてもね、きっとこの闘いが将来の布石になるだろう、と言っている。そういった、とにかく過去五年か十年か知らないけど、歴史があるってことは、歴史があるが故に、今まで何人もの、それこそ百人も越える人間の血が流れている、と。それを我々はしっかりと見つめ得るならば、この闘いはもう絶対に負けられない闘いだ、と。ということは過去のいろんな人の、山村君の本―その生きた学生生活を見るにつけてもだね、他のも、いろいろ調べるにつけてもだね、そういったことを踏まえるならば、われわれは決してわれわれだけで闘っているんではなくてね、我々が負けたら我々だけで済むのかどうか、そこを考えてしまう。」


【入試期間の立ち入り禁止を決定】

「早大は24日から3月5日にかけて入学試験が実施されるが、2日開いた定例学部長会議で①本部構内は19日から3月5日まで②文学部構内は20日から3月3日までの間、受験生、教職員、試験監督官以外の学内立入り禁止を決めた。これは一般学生による妨害などによる混乱を防止するためで、機動隊の待機もありうるという。試験期間中の一般学生の立入り禁止は45年以来4年連続した措置。」(1973年2月3日付朝日新聞)


【教育学部掲示(2月3日付)】

「学年末試験に関する掲示
2月5日(月)以降の予定については本日11時頃掲示する。
2月3日                       教育学部」

【教育学部掲示(2月3日付)】

「学年末試験に関する掲示
 学部はやむを得ず学年末試験を一週間延期した。しかし安易に試験以外の方法に変えることを考えていない。
 そこであらためて5日以降の試験日程を以下のように組みなおした。
 この日程がさらに延期されるようなことがおこれば、学年末の多忙な行事日程から学年末試験を3月中旬まで実施することはできない。
 学生諸君の冷静な判断を切望する。
2月3日                       教育学部長」


【リンク】

山村政明シンポジウム一在日朝鮮人の生と死 一文自主コーザかんてついいんかい(くらわん)