1973年11月11日(日) 供述により明らかになった事件の経緯。監禁致死罪で革マル派4人起訴

提供: 19721108
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【概要】

勾留中の佐竹実の供述によって川口君の死に至る経緯が明らかになり、事件に直接関わった村上文男(25)、武原光志(23)、佐竹実(23)、阿波崎文雄(26)の4人が監禁致死で起訴された。田中敏夫(24)は、事件現場にいなかったとして処分保留になった。佐竹は自己批判書を取調官に提出し、自供に至る心境の変化を明らかにするとともに、党派間の暴力行使の中止を訴えた。

【一年目の自供】

監禁致死容疑で逮捕、取り調べを受けていた元一文自治会書記長の佐竹実が川口君殺害を自供した。
自供によると、革マル派は対立する中核派とのセクト争いから、昨年11月8日午後2時頃、文学部構内で友人と立話をしていた川口君を「お前は中核派のスパイだろう」と佐竹ら5人が文学部127番教室に連行、村上らの指導でイスにしばりつけたうえ鉄パイプで殴るけるのリンチを加え死亡させた。
佐竹は、10月21日に逮捕されて以来完黙を続けてきたが、8日を前にした週明けに革マル派の弁護士を解任、8日の東京地裁での拘留理由開示の公判も辞退して自供を始めた。
これによってすでに逮捕されている二文自治会委員長の村上文男ら4人の起訴もほぼ確実になり、指名手配中の元一文自治会組織部長の後藤隆洋ら6人の逮捕に捜査の的が絞られることとなった。
自供に至る経緯については『内ゲバ~公安記者メモから』(滝田洋・磯村淳夫著)に詳しい。
「自己批判書の日付けが、死者・川口の一周忌の翌日ということは、警視庁公安部(あるいは東京地検公安部)が“一周忌”のチャンスをとらえ、加害者・佐竹に精神的攻めを加えた結果とも見られる。佐竹をはじめ川口君事件被疑者に対し警視庁公安部は、カラーの遺体写真をも眼前に突きつけ、日夜の調べ(攻め)を強行した。」

【川口サトさんのコメント】

「被告たちが遅まきながらでも、自分たちがやったことが間違っていたと自己批判したことはうれしい。これをきっかけに、ほかの活動家の人たちも、運動の中から暴力を締め出すよう努力してほしい。大三郎が死んでまる一年たった今は、被告たちに対して憎しみより、むしろ被告たちの母親に対する同情の念の方が強い。」(1973年11月12日付読売新聞)

【監禁致死罪】

東京地検は当初殺人罪の適用を検討したが、川口君の死に慌てていたという証言があったことから、川口君を殺すつもりはなかったと判断し、監禁致死罪を適用した。また、警視庁は「逮捕監禁致死罪」で逮捕したが、東京地検は川口君を長時間におよび教室に閉じ込めたことから「監禁致死罪」に当たるとして逮捕罪を省いた。なお、逮捕罪とは、他人の両手両足を捕らえた場合など、短時間の拘束に対して適用される。

【元一文自治会委員長の関与】

当時の一文自治会委員長・田中敏夫については事件への関与が認められなかった。
「東京地検は、監禁致死容疑で警視庁が逮捕した元早大一文自治会委員長・田中敏夫(24)を12日夕、処分保留のまま釈放した。田中は川口君事件の指揮、命令をした疑いがあるとされ、10月22日に逮捕されたが、事件に関与しなかったという見方が強くなったため釈放となった。田中は、別の内ゲバ事件で横浜刑務所に服役中を逮捕されたので、釈放と同時に身柄は再び同刑務所に移された。」(1973年11月13日毎日新聞)
1973年11月12日付読売新聞によれば、田中は佐竹に先立って11月7日に自己批判書を書き、転向を表明した。
「田中の自己批判書はさる7日『川口君事件に対する私の態度と反省』と題して書いたもので『暴力の行使は人間性を腐敗させる』など、佐竹とほぼ同じ内容。田中は事件当時の早大革マル派の最高幹部だが、組織との関係について『学生運動から足を洗う』と述べているという。」

【革マルの対応】

こうした自己批判への革マル派の対応は、前出の『内ゲバ~』に詳しい。すなわち、党派的に対応したというのである。「公安当局の弾圧のもとで、暴力一般を否定するというブルジョア的人間観を注入されこれを粉砕しえず、そうすることによって裏切り者となった」(革マル派機関紙『共産主義者』32号)と批判した。革マルにとっては、川口君事件そのものが党派闘争の論理と倫理の破綻を意味するものだっただけに、佐竹の自己批判書に対しても組織的な危機として捉えた。同じく中核派も「佐竹・田中は留置場以外に安全なところはないと観念し警察に保護を申し出た。だがこれは転向でも何でもない。佐竹の脱落にさいしての論理は革マルの“党派闘争の論理と倫理”なるものと寸分違わない」(中核派機関紙『前進』660号)と批判した。
対立する両派に共通するのは、この自己批判は権力に屈した脱落であり裏切りであって、闘争そのものへ向けられた批判ではないという認識である。すべては対権力との問題であり、党派の論理そのものは間違っていないとしている。
革マル派はどのような行動に出たか、佐竹への論告求刑を報じる翌1974年6月28日の読売新聞には次のような記述がある。
「革マル派から見れば、佐竹は裏切り者。山形県の親元や佐竹の弁護を受け持った大山英雄弁護士のもとにはいやがらせの電話が続いた。このため、裁判所側も佐竹の身の安全を考え、公判期日や使用法廷は報道関係者にも“完全黙秘”という気のつかいよう。万一に備えて法廷の看守を増やし、本来なら法廷で当事者と打ち合わせて決める次回期日も『追って指定』に切り替えたほか、両親など情状証人4人の尋問も公判期日外に非公開で行った。」
そうした措置にもかかわらず、初公判の時には、東京拘置所から護送車が着くと学生風の男3人がつきまとい、法廷にも十数人が現れて、被告席の佐竹をやじり倒したという。
(資料:『内ゲバ~公安記者メモから』滝田洋・磯村淳夫著)

【佐竹実 自己批判書】

川口君を死に追いやった本人として、そして当時一文自治会の書記長をやっていた責任ある者として、私が完黙をやめ私の社会的責任を明らかにする心境になったのは、以下の理由によるものです。
それは彼の死に直接関係した私が、自己の社会的責任を明らかにすることによって、故川口君の冥福を心から祈ると同時に、川口君のお母さんに深く謝罪したいと考えたからです。さらに、現在の党派関係の異常性とそこにおける暴力的衝突を見るにつけ、かかる現状を深く憂い、二度とこのような不幸な事態がおこらないよう強く切望しているためでもあります。
私は川口君の問題を真剣に考えている全ての人々に次のことを強く訴えたいのです。:: 現段階の党派闘争は明らかに異常といえます。このような現状の中で、党派闘争に暴力を持ち込むことに関して、真剣に慎重に再検討して欲しいのです。暴力の行使に際限はありません。そしてその結果は予測をはるかに越えるものがあります。
現に私は川口君を死に追いやろうなどとは、もちろん夢にも考えていませんでした。しかし結果はあまりにも悲惨なものでした。私は、私と同世代の人間的にも未熟な若い人々が暴力を行使することになれてしまうことが最も恐ろしいのです。傷つけ、傷つけられることを厭わない人間になることが真の勇気ではないと思います。人間の生の尊厳なくして人間の解放はないはずです。今こそ、この原点に立ち帰るべきです。
確かに、現在の党派関係と党派闘争を正常に戻すことは非常に困難なことでしょう。容易にできる問題ではないと思います。それは大きな努力が必要でしょう。しかし誰かがやらなければなりません。私はそのことを、川口君の問題を真剣に考えている全ての人々にやり遂げて欲しいのです。私の犯したような重大な過ちが再びおこらないことを強く切望するからです。社会の矛盾を変革するために自己犠牲的な活動を展開している人々が、お互いを傷つけあうことほど不幸なことはないと考えるからです。
現在、私は川口君という将来ある一人の青年を死に追いやってしまった自己の人間的未熟を痛切に反省し、あわせて川口君の霊が安らからんことを祈っています。
川口君、そして川口君のお母さん、ほんとうにすみませんでした。
昭和四十八年十一月九日      佐竹実(母印)


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