1973年1月22日(月)政経執行部が3号館を封鎖。機動隊出動で逮捕者15人

提供: 19721108
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【概要】

当局は検問体制で試験を強行。正門前には機動隊も待機した。政経学部執行部の50人が3号館に入り内側からバリケードで封鎖。当局は機動隊を導入し封鎖を解除。機動隊による暴行への抗議に対して学部事務局は「試験場確保のため」と強硬な態度。その後、総長室のある1号館に学生が入った時点でふたたび機動隊が出動。15人が逮捕された。

【この日のできごと】

◎機動隊監視体制のもとで、法学部と商学部の期末試験が実施される。
■試験会場の見回りをした大学職員が3号館と11号館から革マルのものとみられる鉄パイプ200本とカシ棒100本を発見した。
8:20 政経学部自治会執行部50名が固まって登校し、3号館入口にバリケードを築いたため当局は機動隊に出動を要請。100人の機動隊員が学生を追出し封鎖を解除した。抗議する学生は図書館前で集会、2000人規模に。1号館になだれ込み、一部の学生は4階総長室まで駆け上がり、職員と小競合いとなる。その直後に二度目の機動隊導入(事前警告なし)。機動隊200名は建造物侵入、暴力行為で学生15名を逮捕した。
15:00 昼前姿を見せなかった革マルは他大学生数十人が旗竿を持って検問を突破、11号館地下に。その後100人が武装して大隈像前で集会。機動隊は学生を追い散らすだけで革マルはその脇でゆうゆうとデモを繰返し、夜に入ってその数は400名に膨れあがった。
◎二文、自治委員選挙をクラス単位の防衛体制で貫徹、革マルの妨害をはねのけた。
◎教育、クラス委員総会を開催。

【2回目の機動隊出動】

「午前中の機動隊導入に怒った政経学部自治会執行委員の学生らは、午後になっても図書館前で糾弾集会を続け、参加学生は2000人にふくれ上がった。学生たちは政経学部3号館前にいた教授二十数人を次々に集会の演壇にあげ『導入をどう思うか』と迫った。
教授らは『機動隊は学部、教授会の頭越しに導入されたもので、くわしいことは聞いていない』と答えた。このため学生は渡辺真一学生部長の出席を求めて追及したが、同学生部長も『試験を受けたい学生がいたため』を繰返しノラリクラリの態度を続けた。
学生たちは同学部長を演壇から降ろし、デモの隊列に入れて本部一号館まで連れ出し『村井、保田は出て来い』とシュプレヒコールを繰返し、一部の学生は4階総長室までかけ上がり、職員と小ぜり合いした。
午後4時過ぎ、同学生部長のつるし上げに見切りをつけ、約100人が『機動隊導入を許さない』『村井総長は団交に応じろ』と叫びながら、本部一号館になだれ込んだ。そこへ大学側の要請で機動隊約200人が突入、学生15人を暴力行為、建造物侵入などの現行犯で逮捕した。
再度の機動隊突入で、3000人以上の学生が1号館と3号館の間の通路に座り込んだり、機動隊へ投石が続けられ、機動隊は同4時50分、学外へ退去した。
騒然とした空気のなかで法、商学部の試験は予定どおり行なわれたが、政経学部は22、23日の試験を中止と決定、24日以降は再協議することになった。」(1973年1月23日付毎日新聞)

【この日革マルは…】

「一方、革マル派は昼前はほとんど姿を見せなかった。午後3時ごろになって都内の他大学の同派学生数十人が竹ざおを持って検問を突破、11号館(商学部)地下に入った。居合わせた学生たちは検問に立っている教職員に『なぜ入れた』と激しく抗議する一幕もあった。その後革マルは早大の同派学生と合流。約100人がヘルメットをかぶり、旗ざおを持って武装、 大隈銅像前で集会を開いた。しかし、機動隊は1号館にいた反革マルの学生を追い散らすだけで、革マル派はその脇でゆうゆうとデモを繰返した。 同派は夜にはいって他大学からの応援部隊を加え約400人にふくれ上がった。」(1973年1月23日付朝日新聞)

【『一文有志の記録』から】

「政経一週間スト初日。昼ごろ本部に来ると、朝9時にマルキが3号館に入ったとのこと。パクられたのは居なかったが、メチャクチャなことをやる。教授は誰も知らなかったなどという。16号館でクラス討論。夕方3時20分頃再度マルキが1号館に入る。(15名逮捕−−後できく。不法侵入、暴力行為--こんな不当なことがあるか。)政経の諸君はM君(注:原文は本名)を先頭に坐り込んで抗議する。Zは大隈像のまわりを完全武装してただグルグルと回るだけ。突っ込むかと思うと、やらず、さっとひく。真に権力と斗っているのは誰かということがはっきりとわかる。カクマルの権力との緊張関係なるものがいかにデタラメかということがわかる。4時頃マルキはひいていく。正門と東門から入る。政経の抗議、糾弾のデモ隊、全学を埋め尽くす。」

【週刊新潮1973年2月8日号の見出しには…】

渡辺真一学生部長を先頭にしたデモの様子は、毎日新聞、産経新聞等に写真付きで掲載された。後日、1973年2月8日号の「週刊新潮」は「この学生たちに一生ついてまわる『早大学生部長吊し上げ』の新聞記事」という見出しで特集を組んだ。覆面などで顔を隠さなかった学生たちの心情と怒りを理解できない記事のスタンスはその前文からも伺える。
「デモに引きずり込まれまいとしてガンバる学生部長を、寄ってたかって引き回す学生たち。その学生たちの平然たる顔、顔、顔。−−去る1月23日の各紙朝刊は、紛争中の早稲田大学について、きわめて衝撃的な写真を一斉に掲げた。殺人やリンチが横行する“都の西北”では、師弟関係の喪失、不信、断絶を物語る場面など、もう珍しくないのかもしれない。が、この異常事態を異常とも感じていないがごとき学生たち。その表情がかくも鮮明にとらえられたのも、学園の“荒廃”が、それだけ日常化した からであろう。」

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