1973年1月19日(金)政経学大で1週間ストを決議。11号館で革マルと攻防

提供: 19721108
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【概要】

革マルが「文連総会」を開催。これに抗議してサ連と行動委は3号館へデモをかけた。3号館前で集会をしていた革マルを囲んだ学生から投石が始まり、革マルは11号館へ立てこもった。革マルは階上から薬品や什器を投げ落とし、下にいた政経学部1年生がコンクリート塊の直撃を頭に受けて重体となった。行動委も放水などで入口突破を試みたが、午後7時頃、正面と背後から革マルの挟み撃ちにあい35人の負傷者を出した。大学当局はロックアウトを決め、マイクで学外退去を繰り返すのみ。機動隊も待機していた。この間、政経の学生大会は続行され1週間ストを決議した。

【この日のできごと】

13:00 政経学部自治会執行委員会は10号館109教室で学生大会を開催。出席者1190名、議場委任 462名。学部自治会の即時無条件承認など5項目要求を掲げて翌20日から1週間のストライキに入ることを決議した。
■同時刻、革マル派号館402室で84サークルを結集して文化団体連合会常任委員会を開催し、成功と発表。
◎サ連・行動委150人は昼過ぎから「デッチ上げ文連常任委粉砕」を叫んで、睨み合いとなる。
15:20 小競合いから革マルが旗竿で学生に襲いかかったため、構内に居合わせた一般学生3000名が遠巻きに「革マルは出ていけ」「早大解放」を叫んで投石が始まった。革マルは竹竿を構えたままうずくまるようにして投石を避け、約100m離れた11号館(商学部)に逃げ込み、鉄製扉を閉めて机・椅子でバリケードを築き、3・4階から大型の灰皿 やスチール机・消火器、かねて用意の硫酸などを投げ下ろしたため、学生に多数の負傷者が出て、政経1年K君は頭蓋骨陥没の重体になる。
19:00 100名の革マルが鉄パイプで学外から駆けつけ、11号館から出た革マルと合流、30分にわたって襲いかかったため、35名が負傷した。
23:00 村井総長は記者会見し、22日からの期末・卒業試験は大学本来の目的なので実施すると語るも、翌日のロックアウトを決定した。

【政経学部の学生大会】

「早大政経学部自治会執行委員会(水野孝委員長)は19日午後1時から10号館(共通教室)で1156人(委任状をふくむ。定足数1112人)が参加して学生大会を開き①学部当局による新自治会の即時無条件承認②自治会費凍結解除③全学団交、など五項目を要求して20日から一週間のストライキにはいることを賛成多数で決めた。同学部の学年末試験は22日から始まることになっており、かなりの影響が出る見通し。また昨年暮れから始めていた新自治会承認の学生投票は、19日午前中に政経学部在籍学生の半分を超える2810票の賛成票を集めた。これで同学部教授会が45年7月に決めた自治会再建三原則はすべてみたされたことになる。同学部教授会が新執行部を認めることになれば、政経学部は43年秋以来5年ぶりに公認自治会ができることになる。」(1973年1月20日付朝日新聞)

【11号館の攻防】

11号館を囲んだ学生に対し、ノンヘルの革マルが背後から、時を同じくして、立てこもっていた革マルが正面の11号館から襲いかかり、挟み撃ちとなった。この模様を「早大〈十一.八〉抵抗運動」によるビラは次のように記している。「遂にカクマルを追いつめた。全国動員のわずか200名足らずの革マルを早稲田5000の闘う学生は完膚なき迄に打破った。しかも黒ヘルを先頭にする早大管理体制からの反乱に恐怖した権力は、商学部11号館でうち震える革マルを救出しようとするが、圧倒的に結集した大衆の前に全く手も足も出なかった。一方、正門前、文学部前、地下鉄早稲田前で反革マル部隊の突入を阻止していた権力=機動隊は何と驚くべきことに、前日の中核とはうって変って、鉄パイプで武装した100人のカクマルを何らチェックすることなく通過させ、早稲田の構内に送り込んだ。送り込まれた鉄パイプ部隊は行動委の黒ヘルめがけて襲いかかってきた。」

【行動委からのビラ】

11号館前の衝突について早大全学行動委員会連合(準)はビラの中で次のように再現している。ビラの見出しは「危篤1名、病院収容者35名〜午後9時現在確認〜」。
「(前略)一切の大衆的支持を失い孤立した革マルは11号館に逃げこんだ後、あまりの恐怖感からテロ集団としての本性を露呈し、今度は11号館3、4階から無差別に物を投げつけたのだ。『石、コンクリート塊、消火器、 発煙筒、鉄製灰皿、熱湯 etc.』を『革マル糾弾!』の声をあげる3000の学友の頭をめがけて投げつけたのだ。この全くもってハレンチな行為によって政経一年のK君(注:原文は本名)が今なお危篤状態をつづけているのだ! 3000の学友は、カバンを持ち、本をかかえ『第二の川口君を出すつもりか!』と叫んでいた。負傷者の中にはカバンを右脇にかかえ抗議の声を上げている最中に4階からの投石を右目に直接受けコン倒した学友もいた。学友諸君! 革マルは第二、第三の川口君を出すことを少しもためらってはいないの だ! 11号館を包囲し、石を投げ返し、奪った竹ザオで革マルの犯罪的バリケードに突入していった多くの学友と共に我々全学行動委(準)は、断じて後退のない斗いを推し進める。決意は固いのだ。」

【証言】

「救対も人が足りなくてK君の救急搬送には付いていけず、後から僕が頼まれて容態を確認するために病院へ行った。K君は既に応急処置を施されている最中で、面会することはできなかった。病院には学内でもよく見かけた私服が来ていた。当然権力とは緊張関係にあったから『なんで私服がここにいるんだ』って迫った記憶がある。頭蓋骨陥没で命に関わる事態だから家族にも連絡したと言っていた。」(一文2年行動委)

【『一文有志の記録』から】

当時のことを克明に記した『一文有志の記録』には、2月4日付で次の様な文章の後に19日以降の模様が書かれている。
「1月21日より約10日余り。この間何も書かず、書かずというより書けず。ただ家に帰っては眠り、大学では精一杯斗い続けて来た。精神的、肉体的疲労の積重なり。日々の記録さえも満足にとれず、大分まいっている。このように闘いの激動的生活が日常化すると、精神的退廃に身を埋もらせることとなる可能性がかなりある。斗いの悪い意味での日常化。どうにも続かない。どうにも書きつらねることが出来ない。この間、何を考え、何をしようとしていたのか?」
「19日。国語試験日。綿密な打合せの後、統一的ボイコット行動。自主講座(16号館107)。午後よりZが集会。隣り合せで“黒ヘル”の集会。Zが旗ザオで突ゲキし、それを見ていた学生に向かっても、旗ザオを突き立てて突ゲキする。学生が投石し、3,4000 人の学生によってZは11号館に逃げこむ。3階まで逃げこみ、入口を机・イスでバリ封。黒ヘルはバリ破って解除しようとするが、Zは3階からイス、灰ザラ、コンクリート塊、塩酸などを投げおろす。その間、政経K君、額に投下物を受けズガイコツカンボツ。5時頃大学はロックアウト。「黒ヘルメットと学生諸君はすぐに退去しなさい云々」など。6時頃帰る。(情報によると、その頃学館を出たノンヘルZが50名位、鉄パイプを持って背後より学生に襲いかかり、11号館のZと一緒になって学生に突きかかる。その後、学館に引き揚げたという。)当日は政経の学生大会と文連総会が開かれていて、政経は一週間スト。」

【一文1年生クラスのノートから】

「この前本部を歩いていたらあの愛すべき藤縄さんが『おまえこれから4号館に行くんだろう』と私の行く手に立ちふさがり、おまけに足をけりあげるなどの暴挙(これも個人テロ?)を白昼公然と行なってきた(その日から私はこの闘いには命がかかっていることを痛感したのです)。そしてその日、デッチ上げ文連総会を強行しようとしている革マルのデモに対して大衆(一般学生)の中から『やっちゃえ、やっちゃえ』という声がまきおこり、革マルの居直りぶりに腹の立っていた 私も含めて多くの学生の結集された怒りが革マルを11号館に追いつめたのだ(革命的!)。その過程で革マルは私達全員に旗竿を向け、11号館に籠城してからは私達に向かって机を投げつけ(灰皿にあたった学友はいまなお意識不明!)、11号館から突然とび出してきた革マルはノンヘルの革マルと共に(ロッ クアウトにもかかわらず革マルだけ入っていた)、無差別に鉄パイプで襲撃してきたのだ。担架の上で血だらけになって『痛い、痛い』ところげまわる学生を運びながら『なぜこんなことになったのか』『私達の行動が間違っていたのだろうか?』と事態のおそろしさに泣き出したいような気持ちだった。(後略)」
※一部、表記を変更。

【村井総長の記者会見】

「村井資長早大総長と清水司常任理事は、19日午後11時すぎから学内で記者会見し『暴力追放で始まった運動がセクト間の抗争激化で本来の目的に値しないものになってしまったことに暗い気持だ』と語った。しかし、暴力追放については『大学に力がないため時間をかける以外にない』と繰返すだけだった。また、期末、卒業試験については『いまの状態でもできる』といい、学生が要求している総長の団交は拒否の姿勢を変えなかった。」(1973年1月20日付毎日新聞)
「早稲田大学の村井資長総長は19日夜記者会見し、学生同士の内ゲバや今後の紛争の見通しについて次のように語った。
−−今日(19日)の事態をどう思うか。
『暴力追放の運動がセクト間の対立激化につながったのは残念だ。暴力の肯定は大学の否定になるので、衝突はなんとしても食い止めたかった。今後、こういう状態が続けば、暴力追放の強化も考えなければいけない。』
−−冬休み明けから学内で鉄パイプや角材などの武器が目立ち、凶器持ち込みを禁止した告示が無視されているようだが。
『大学に力がない以上、難しい問題だ……。』
−−学年末試験についての見通しは。
『何としてもやりたいし、できると思っている。混乱を防ぐための対策は早急に検討するが、機動隊の要請などは考えていない。』
−−紛争収集の具体策はあるのか。
『それは学生自身がつくっていくことだ。もちろん、われわれも教育の一環として指導はするが、今の時点で全学集会を開く気持はない。』」(1973年1月20日付読売新聞)
「村井総長は19日午後11時すぎから記者会見し、『暴力追放のための警備体制を強化することを検討したい』などと次のように語った。
『後期試験が始まる来週までは紛争解決のメドをつけたいと思っていたのに、こうした事態になって非常に残念だ。一般学生の中の暴力追放の声にもかかわらず、セクト間の抗争は日ごとに激化してきたようだ。学生との話し合いは行ないたいがこのような状態では無理だ。後期試験はなんとしてでも完全に実施したいと思っており、そのための対策を検討している。』」(1973年1月20日付日本経済新聞)

【朝日新聞による「解説」】

「早大で19日また起きた流血騒ぎは、ひたすら冬休みを待ち、学生たちの“沈静”を望んだ大学当局の期待を打砕き、以前にもまして当局の無力無策ぶりを示した。
この事態は予想できなかったことではない。昨年暮れ革マル派に反対して各学部の学生大会を開いた全学部自治会連絡会議が、8日の冬休み明け 開いた集会には、初めて黒ヘルメットをかぶった学生たちが登場し、『反革マル、反民青』などと主張し、これまで反暴力路線でまとまっていた反革マル陣営の一部に、異質の流れが出てきたことを示した。
また文学部ではこのところ革マル派と臨時執行部は自治委員選挙をめぐって連日対立、小ぜりあいを繰返してきた。けが人も出たため大学当局は17日午後、18日とロックアウト措置をとった。18日夜は『革マルせん滅』を叫んで武装部隊の早大常駐を宣言していた都内の他大学中心の中核派が突入を図り、60人が逮捕された。
この間、いわゆる一般学生は昨年11月の川口君リンチ殺人事件をきっかけに盛上がった熱情を失ったかに見え、集会やデモの参加者はめっきり減った。セクトや一部の活動家の動きだけが目立つ状況は、暴力的な対決の泥沼に向う前ぶれだったといってよい。
しかし、大学当局はこの間、少なくとも表面的には、何の対策もたてていないように見えた。学生に対しては8日に「自治会問題に思う」という総長声明を出しただけだった。16日の政経学部団交でも『自治会は教育の一環だと考えている』『現段階で新執行部の承認はムリだ』と繰返して、学生との対立を深める結果に終った。
一般の学生の自治意欲が盛上がらない限り、大学側だけ責められても打つ手がない、と当局はいう。しかし19日、革マルに追われて逃げ回っていた政経学部3年生のように『とにかく村井総長は、われわれの前に出てくるべきだ』と、大学当局に“体をはって”も対処することを望む一般学生は多いのである。」(1973年1月20 日付朝日新聞)

【リンク】

危篤一名病院収容者35名 革マル派ノンヘルテロ部隊、闘う学友を鉄パイプで無差別に襲*‼︎ 早大全学行動委員会連合(準)