1973年1月18日(木)全学行動委、サ連他の部隊が馬場下で機動隊と衝突

提供: 19721108
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【概要】

文学部は終日ロックアウト。午後になって、本部から文学部に向かった一文の臨執と行動委、そして全学行動委、サ連他のデモ隊が馬場下の交差点で機動隊に規制され行く手を遮られる。デモ隊は何回か突破を試みたが機動隊の楯に阻まれる。この揉み合いの中で一文の1年生一人が逮捕された。夜になって中核派が本部正門前に登場し革マルと衝突。中核60人が逮捕された。

【この日のできごと】

8:00  文学部は終日ロックアウトとなる。
14:25 全学部自治会連絡会議、全学行動委連合(準)、サ連などの学生300名は馬場下交差点で機動隊と衝突し、1名が逮捕される。本部で全学総決起集会を行い、一文支援の集会とデモの後、4号館に待機した。
16:00 政経学部16号館106教室で自治委員総会開催。
◎鶴巻公園まで中核派のデモ。その後、本部正門付近で革マル派と衝突。中核派60名が逮捕されるも、革マル派に逮捕者はなし。4号館に待機した学生は外に出られず、革マル派から執拗な投石を受けた。

【政経学部の自治委員総会】

「午後4時より16号館106教室で自治員総会が自治委員90名(定足数80名)を結集して行なわれた。総会は選管、議長選出、水野委員長あいさつ、学大選管より学部投票が過半数を越えたとの報告と続き、次に議案書説明に入った。まず五項目要求を克ちとるために必要なクラスの活動に対する圧殺としての試験強行はピケストで阻止し討論延期を克ちとるとの執行部案に続き、ピケストに反対し試験中もクラス討論と活動を行うという民青系の対案書(代表蓮沼君)の説明が行なわれた。次に各クラス決議が報告され、クラスによって意見が異なること、保留が多いことが明らかになった。ただちに採決に入り、執行部案が賛成57(うち議場委任12)反対22、保留11、棄権0で採決された。」(早稲田キャンパス第173号)

【ドキュメント「1.18」】

「3時30分頃、体育局から出て来ると、文学部行動委、臨執、他学部、C連のデモ隊150人ほどが馬場下の交差点でマルキと衝突。中には、我がクラスの人間も大分混ざっている。果たしてその(マルキと衝突するという)意志一致をしているのだろうかと不安になる。ジグザグでマルキに規制され、ソバ屋のとなりまで押し返される。歩道は野次馬でいっぱい。マルキは強引に規制にかかる。デモ隊は一度引き下がってジグザグをくり返し、また衝突する。そこでうちのクラスの人間もやられる。ぼくはデモ指揮に『もうこのへんでやめておけ』というが聞き入れられない。そのうち歩道に規制にかかったマルキは、学生会館のそばで後ろ向きで規制されていた学友(1I)を不当にも引きはがして連行する。不当逮捕。彼は威力業務でも公執妨でも道交法違反でも何でもない。ぼくはものすごい恐ろしさを感じる。『釈明』を要求し、執拗に抗議するが楯で顔を何発もなぐられる。引きあげるがまったくムチャクチャ。権力と直接対峙するなら、それなりの意志一致のもとにやらなければならない。そうでなければ犠牲を生むだけ。」(『一文有志の記録』から)

【中核派の動き】

中核派の登場を1973年1月19日付の朝日新聞は次のように報道した。「中核派はこれまでビラを配る程度で、早大内部ではほとんど目立った活動はなかった。昨年暮れ『冬休み明けに武装部隊を早大に常駐させる』と早大での主導権奪取のための介入を宣言したが、これまでは、百人から二百人が地下鉄東西線で早稲田周辺を行き来する“モグラ戦術”をとるだけで、 早大の自治会再建運動には、ほとんど影響力をもってなかった。この日の武装部隊もほとんどが学外者で組織されたと見られているが、中核派が今後も実力で早大構内への突入などをはかれば、革マル派や反革マルの学生との間に新しい摩擦が起こるものと見られ、早大の自治会再建運動は、さらに混迷するものと見られる。」
『一文有志の記録』には次の記述がある。「4時30分頃、鶴巻町方面よりブクロの大部隊が来る。ものすごい数。ヘルメットがまるで装飾模様のように動いている。(中略)6時半頃、ブクロ3、400 がマルキに規制され、凶器準備集合罪で大半がパクられ、武器をとられて2隊に分断され、正門から学内に押込められる。そこで後ろにはマルキ、突ゲキ態勢も取ることが出来ずにZにやられる。(Zは鉄パイプetc.で武装)我々は4号館で待機。大分やられる。C連の諸君は竹ざおでゲバ棒をつくり、突ゲキ態勢。ぼくが批判すると「今やらなきゃ、いつになったらZをせんめつできるんだ」「今早稲田を解放しなきゃ、いく所がない」などという。それには違いないのだが…。ブクロはZにメチャメチャにやられたらしい。組織的抵抗出来ずにカイメツ。各門はZの武装部隊が固めたらしい。時々4号館が襲われる。Z諸君は8時前11号館に引上げる。我々400〜500人(4号館にいた人間)は北門より学外に出る。四つ角にはバリケード、ビールビンのカケラ。嵐の後の静けさ。『一般学生』はこっちを冷淡に見ている。(中略)当局は、夕方からあれ程ひどい流血の事態にもかかわらず知らん顔。」

【翌19日に当局が出した告示】

「1月18日夕刻、大学正門付近において、他大学生多数を含む革マル派と中核派の争いがあり、大学は一時騒然となった。大学を学生集団間の争いの場とすることは、いかなる理由があろうと、絶対に許されない。また最近、ヘルメット、竹竿等で身をかためた革マル派及び一部の集団による示威行動がみられる。強く反省を求める。」(1973年1月21日付読売新聞より)

【当局へ対するマスコミの声】

「(前略)昨秋の事件直後、あれだけ多くの一般学生が『暴力追放』を叫び、学内改革に立ち上がったとき、どうして村井総長を筆頭とする大学幹部は、学生と直接、接触しようとしなかったのか。全学団交は物理的に無理としても、一般学生の純粋な学内改革の願いを吸い上げる機会や方法はいくらもあったはずである。
それがずるずる放置されて冬休みに入り、休みが明けてすぐ学年末試験、入学試験と続けば、大学当局が意図して一般学生の声を黙殺し、セクト間の争いを浮き彫りさせているという批判も当たらないことはない。組織を持たない一般学生の声は、事件から時がたてばたつほど小さくなってしま うだろう。4月の新学期になればなったで、セクト間の新入生獲得合戦が盛んとなり、ますます早稲田の森は騒然となることも考えられる。
いまとなっては、騒動の早急な解決は望めず、熱いうちに鉄を打ちそこなった悔いが残ったような気がするが、この際、大学当局に身をもって問題解決に乗り出す人物はいないものだろうか。『いまの早稲田には、あえて火中の栗(くり)を拾おうとする人がいない』という声がある。第一次早大騒動の時に阿部賢一元総長が示した紛争解決に対する熱意と努力が、いまこそ大学当局に必要だろう。機動隊に守られて学年末試験や入学試験をたとえ無事に終えたとしても、このままでは“ワセダ丸”は難破しかかっているとしかいいようがないのである。(羽鳥昇兵記者)」(1973年1月21日付読売新聞)

【リンク】

暴力への視座