1973年1月1日(月)大学当局が保護者宛に文書を送付。学生への協力を呼びかけた

提供: 19721108
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【概要】

大学当局は、保護者宛に『早稲田 WASEDA WEEKLY(父母号)No.18』(昭和48年1月1日付。早稲田大学広報課発行)を送付(実際の送付は12月末)した。総長名による「新年を迎えて」に続いて、12月7日付の総長名による「学生諸君へ」、12月8日付の総長室による「川口君事件の経過と学生自治会問題にふれて」の他、川口君の遺族への弔慰金募集の記事も掲載されている。

【「久遠の理想」と「不幸な出来事」】

「学生諸君へ」の中で村井資長総長は、「去る11月8日に生じた事件は、私にとって痛恨極まりない衝撃でありました」とし「私もまた一個の人間として、人の子の親として、さらに万余の学生をあずかる総長として(中略)かかる出来事を二度と繰り返さないための適切な方策を求めて苦慮してまいりました」と述べた。11.8以降の学内の動きについては「学生諸君の中から翕然として暴力排除の声がおこり、その叫びは、私を始め大学関係者にとっても大いなる励ましとなったのであります」とし「早稲田大学が掲げる『久遠の理想』に通ずる大道を進むことに一切の施策の焦点をあわせてまいりました」としながらも「大学は、激動多く矛盾少なからぬ現代社会の只中に在り、(中略)当然のことながら大学も幾多の矛盾、波瀾、動揺を蒙むるものであります」と、当局の決定について、その整合性の不備について言及している。一方で、そうした現代社会の複雑な矛盾の中では 一人ひとりの存在は覚束なく、そこから生じる不安と焦燥は「一部の者を駆って集団を組み、徒党に走らせることになります。この集団の威力が、 あたかも一人の人間としての不安を払拭してくれるかのような、錯覚を生じさせるのであります」と党派活動に加わろうとする一部学生の動機を評しながらも、「学生諸君の自重、自愛を祈り、(中略)今後の同心協力を要請する」と結ばれている。この結語の前に次のような記述があるので記載しておく。「この不幸な事件のため、われわれは一九七二年を苦悩と悲しみのうちに 送ろうとしています。しかしその中で私は、多くの人々と同じ悲痛を共に出来たことを、貴重な体験だと思わずにいられません。既往を顧みる時、私自身忸怩たる自責の念を抑えることはできません。しかし将来を思う時、早稲田大学の進路に限りない希望の光を見るのであります。」

【新しい自治活動の創造】

総長室の名前で出された「川口君事件の経過と学生自治会問題にふれて」という文章では、11月9日以降の学内の動きを時系列で抜粋し、そこでの大学当局の対応も併記されている。自治会再建の動きについては「真に学生自治会が成立するためには、学生の間で十分に議論がつくされ、正規な手続きのもとに、所属学生の総意を代表するような自治組織が学生の手によって作り出されるべきであろう」と、各学部教授会では教授会としての立場からの自治会に対する基本的見解を検討、あるいは示しているとした。さらに「元来、早稲田大学は自由の学府として、各人各様にあらゆる思想、あらゆる表現の自由をもち、それを相互に認めつつ議論をたたかわし、その坩堝のなかから警世の人と学風を作りあげてきたことをもっとも誇りとしている」という建学以来の理想を謳う一文が続き、大学当局のかたくなな姿勢を示した。つづいて「最近において、ややもすれば学園内に放縦の気に流れ他を顧みることを忘れる傾向が出現した。その結果、自己集団の思想と論理のみを主張し、自治会をセクト間の主導権争いの場と化さしめてしまい、学生の多くは自治会から離反し、自治会活動に無関心になり、自治会を一部セクトの学生の手に委ねてしまった。これを容認してしまうことは学生の自治の放棄であり、長い間、早稲田大学において培われてきた学風の凋落である。如何にこの暴力に対するかに苦悩する大学は、正に危機的状況にあるといえよう」とあるのだが、60年代末以降の革マル派による自治会の一元支配に言及していると思われる一方で、12月8日という時期と重ね合わせて読むと、川口君の事件を契機に起きた自治会再建運動を反革マル派のセクトの画策と捉えている向きも伺える。

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