1972年11月9日(木)東大病院構内で川口君の遺体発見

提供: 19721108
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【概要】

気温6.4度と、その秋いちばんの冷え込みとなった午前6時頃、本郷の東大病院構内でパジャマ姿の男性の遺体が発見され、川口君であることが確認された。昼過ぎ、新宿の三福会館で革マル派全学連委員長・馬場素明が記者会見。川口君の死は「スパイ活動を批判する中で発生した事件」と、川口君のスパイ活動を強調した。正午のニュースで川口君の名前が報道されると、昼休みのキャンパスには「殺されたのは早大生らしい」という情報が広がった。

【この日のできごと】

6:10 東大付属病院の外来病棟内科の診療棟を結ぶアーケード中程にパジャマ姿の男の遺体が発見される。
7:00 牛込警察署から二文教務主任宅への電話照会で前日に起きた事件が判明する。
 12:30 三福会館で馬場素明革マル派全学連委員長(早大一文)が記者会見し「戦車搬出集会へのスパイ活動を批判する中で
     発生した事件」と、川口大三郎がスパイであることを強調した。革マル派はその後東大駒場で緊急の集会を行う
     昼休みの文学部キャンパスに「殺されたのは早大生らしい」という情報が伝わる。
 16:00 川口大三郎の文学部構内での死亡が確認される。
夕刻 中核派の北小路敏が「川口君は中核派の同盟員ではない」と表明する。

【この日の2J】

学校では、午前中に登校した2Jの級友の間に前日の川口君拉致の情報が伝わり、まだ自宅にいた同級生に電話してニュースの確認を頼むなど、情報収集に動いていた。午後からの語学の授業で2Jが顔を揃え、川口君の死に対してクラスとしてどう対応するかについてクラス討論が始まった。
一方革マル派は、12時半から新宿の三福会館で記者会見を開き、馬場素明革マル派全学連委員長が、川口君の死は「スパイ活動を批判するなかで発生した事件」との見解を発表。川口君を中核派スパイと決めつける発言をした。
この会見の内容は討論中の2Jにも伝わり、日頃の川口君を知る同級生からは、川口君へのレッテル貼りに対する怒りの声が起こった。討論はいかにしてこの汚名を晴らすかという点を中心に白熱したが、まだ事実経過の情報も少なく、具体的な行動については案が乏しかった。
クラス討論の最中、「話をしたい」と4〜5人の自治会革マル派がやってきた。2Jの男子数人が教室の入口で入室を阻んで押し問答になった。教室から湧き起こった「川口を殺しておいて、何が話だ!」「帰れ!」「帰れ!」の声に、彼等はそれ以上強引に押し入ろうとせず、そのまま引き返していった。
「このままでは僕たちも危ないかもしれない」…。夕刻になり、喫茶店に席を移して討論の続きをすることになった時に誰かがそう言い出して、2Jは固まって一文を出た。

【証言】

「朝、学校にいるS君から『昨日川口が革マルに連れて行かれたらしい。今朝、東大で男の遺体が発見されたというニュースがあったので、川口かもしれない。昼のニュースを見てくれないか』と電話があった。NHKの昼のニュースに川口君の顔写真が出た。それを見た瞬間の記憶は今も鮮明だ。家を出る時『同級生が殺されたから、しばらくは帰りが遅くなるかもしれない』と言ったのを覚えている」一文2J)
「私の記憶では、9日の朝ニュースが流れて、前日に川口君が拉致される現場にいた人もいたから、川口君だということがすぐにわかったらしい。それで、語学の授業で集まっていた2Jのみんなにその話がだんだん広がっていった。私はニュースを知らないで教室に行って、シーンとした雰囲気だったので『どうしたの?』って聞いたら『川口が…』って言われて初めて知った」(一文2J)
「その頃はバイトで忙しく、学校には行かなかった。9日、バイトから帰ると玄関で母親から『川口君知ってる?』と聞かれて事件のことを知った。じつは前日8日の午後11時ぎに、横浜駅で革マルの武装部隊と出くわしていた。後から、あの中に川口をリンチした奴がいたかもしれないと思った」(一文2J)
「私はクラス討論で『このままじゃ収まらないから、革マルに落とし前を付ける』って言った。その時、クラスの中には見慣れない知らない顔がいっぱいいた。留年しているのかわからないけれど、そういう連中が『何を言っているんだ。革マルに殺されちゃうぞ』と言っていた」(一文2J)
「僕は、一文にいた友達の下宿で川口君と話したことがありました。9日のことはよく覚えています。当時、午後はサンダル問屋でアルバイトしていたんですけれど、仕事中はラジオがかかっていて、そのラジオのニュースで第一報を聞いたんです。今もそれを思い出すとぞくぞくしてくるんだけれど、体が強ばった。それは、川口君という『俺が知っている奴じゃないか』ということもあるんだけれども、当時の早稲田の状況を考えた時に、もしかするともっと親しい仲間、あるいは自分自身だったかもしれないと思って、本当に凍り付いた。バイト先には『急用が出来た』ということで早退して、すぐに仲間に会いに行きました。集まって何をするということでもないんですけれど、集まって話したことを覚えています」(政経2年)

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