1972年11月25日(土)革マル派が一・二文クラ討連リーダーに自己批判要求

提供: 19721108
移動先: 案内検索

【概要】

革マル派100人が一文中庭で集会を開き「クラ討連」リーダーを演壇に乗せ、前日の革マル派へのゴボウ抜きへの自己批判を求めた。夜には赤旗を先頭にした覆面・ヘルメットの他大学からの革マルの応援部隊が到着。「帰れ!」の声をあげる学生たちを追い散らし、デモで本部へ向かい、集会と渦巻きデモを繰り返した。文学部当局はこうした事態を静観し、授業を打ち切って8時に閉門した。こうした学内の動きとは別に、28日の学生大会へ向けた議案書の作成が進められた。

【この日のできごと】

11:00 革マル派100名は文学部中庭で集会を行い、クラス討論連絡会議リーダーを演壇に乗せて、前日の混乱について自己批判を要求。午後6時には二文クラ討連リーダーにも自己批判を要求した。さらに7時40分からは全都動員のヘルメット部隊250名で暴力敵対、学生に襲いかかった。


【革マル派の武装反撃】

この日の早稲田の様子を翌26日付の朝日新聞は「革マル派、大暴れ」という大見出しとともに報じた。
「早大で25日夜、都内の他大学から動員した者も含め、ヘルメット、覆面姿の革マル派学生約250人が、「学生大会粉砕」「民青粉砕」を叫んで文学部構内をデモ、道路まで飛出して他学生を追散らした。川口大三郎君のリンチ殺人事件以来わずか十数日で暴力一掃を目ざした学生たちの声は、革マル派の“武装”反撃に一時的にせよかき消された格好。文学部当局はこの間、従来通り終始沈黙を守り続け、事態を静観した。
この日、午前11時すぎから文学部中庭で集会を開いた革マル派学生約100人は、同学部で学生大会を開くための署名運動などを続けているクラス討論連絡会議のリーダー1人を演壇に乗せ、24日夜の学生たちによる革マル派学生のゴボウ抜きなどについて自己批判を要求した。
いったん第一学生会館に引揚げた革マル派学生は、午後6時すぎから再び文学部中庭に現れ、うち30人がヘルメット姿。第二文学部のクラス討論連絡会議のリーダーに再び自己批判を要求した。
これを聞いた法学部など他学部の学生約100人がデモ隊を組んでかけつけると、革マル派のリーダーは「こうした民青系学生による敵対行為には実力で対決する」と叫び、デモ隊を組んで同学部門前にいた学生たちともみ合った。
同午後7時40分ごろ、赤旗数本を先頭に立て、覆面をしヘルメットに他大学の名前を書いた革マル派の学生約150人が、文学部に着いた。構内に散在していた文学部や他学部の学生約300人が「帰れ、帰れ」のシュプレヒコールをあびせたが、革マル派学生は応援も含め約250人でうず巻きデモを繰返し、時々遠巻きにしてシュプレヒコールを続ける学生の列に「あれが民青だ」などと叫びながら襲いかかった。
このあと革マル派学生は他学生を追って学外に出、牛込署馬場下交番前の交差点いっぱいにデモ、さらに隊列を組んで約500メートル離れた同大本部構内まで行き、集会やうず巻きデモを繰返した。文学部当局はこのため夜間の立入り禁止時間を1時間早めて午後8時門を閉じ、それ以降の授業は打切った。他学生はそのまま解散した。
革マル派学生はその後、本部南門前の第一学生会館1階食堂に入り、集会を開いたあと、午後9時40分に解散した。」(1972年11月26日付朝日新聞)

【議長団による緊急アピール】

この翌日の26日には、全学議長団と全学部連絡会議は「学生大会を革マル派の破壊活動から“死守”するため全学部の学友数千人を本部キャンパスに結集させる」との緊急アピールを出した。28日の一文・社学の学生大会を前に、22日以降他大学の学生も動員して革マル派の“反撃”が日増しに高まっており、議長団や学部連絡会議のメンバーへの個人恫喝なども発生していた。
「あくまで非暴力で革マルに対抗、大衆の手で学生大会を成功させる」との立場から、この緊急アピールとなった。
具体的戦術としては、27日昼前から本部キャンパスで全学部の学生数千人を集めて再び糾弾集会を開いて、同夜は大学周辺に泊まり込み、28日は文学部キャンパスにすわりこんで革マルの襲撃を阻止する方針を立てている。(1972年11月27日付毎日新聞より)

【リンク】

六学部で臨時執行部選出 早稲田キャンパス新聞72年11月25日付