1972年11月20日(月)一文で授業再開。10日ぶりに革マルがデモ

提供: 19721108
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【概要】

一文では1週間ぶりに授業が再開された。浅井邦二文学部長から「学生からの要望があれば、積極的にクラス討論に切り替えてほしい」との通知が出されており、ほとんどのクラスでクラス討論となった。各学部の学大開催のための署名活動は順調に進み、一文では正午前に規定の450人を突破し、開催の要件を満たした。一方で、革マル派が本部図書館脇に立て看を出してアジ演を繰り返し、一文記念会堂前広場でも100人程が集会を開き、周囲を取り囲んだ学生たちと小競り合いとなった。またこの日、当局は父兄宛に村井総長名で文書を送った。

【この日のできごと】

◎文学部では授業を再開するも、ほとんどはクラス討論になる。しかし、実施が困難なクラスも。
2Jが、川口君を死に至らしめた学内の情況を見過ごしてきた反省から「2J 11.8行動委員会」を結成する。
■革マルは図書館脇に「日共=民青による自治会乗っ取り策動を粉砕し、戦闘的自治会運動を防衛せよ」の大立看を設置し第一学館からスピーカーでがなりたて、ハンドマイクでも同様の呼びかけを行う。午後1時からは記念会堂前で「早大自治会運動の戦闘的発展のための全学集会」と10日ぶりのデモを行う。
14:00 本部で集会の学生が「革マル集会粉砕」を叫んで記念会堂前に押し寄せ、文学部生の一部も参加して立看をへし折るなどの騒ぎとなる。
◎大学当局は村井資長名で「在学生の御父母の皆様」宛に文書を郵送(11.13声明、11.17告示も同封)。
◎早稲田学生新聞(=原理研)が川口サトさん宅を訪問し接触を図る。(12.11には「セミナーハウス建設」の要望書を村井総長に提出)

【10日ぶりの革マルのデモ】

「革マル派リンチ殺人事件をめぐり紛糾する早大で20日、事件後初めて革マル派学生が公然と集会を開き、学内をデモ行進するなどキャンパスに混乱がつづいた。田中敏夫第一文学部自治会委員長ら革マル派学生約100人は、午後1時から文学部校舎構内の記念会堂前広場で「早大自治会運動の戦闘的発展のための全学集会」を始めた。たちまち一般学生、他セクト学生約1000人が駆けつけ、集会のまわりを取囲んだ。田中委員長は、一般学生から投げられる紙ツブテとヤジの中で『川口君事件を政治的に利用する民青の自治会乗っ取りを許すな』を叫ぶが、激しい怒号で声も途切れがち。他セクトの学生を中心に約300人のデモ隊ができ、先頭が集会に突っ込んだ。一般学生は『革マル派の集会の場にいることは、彼らの政治的主張を認めることだ』と叫び、同校舎中庭で別に“革マル派糾弾集会”を開き、一応混乱はおさまった。」(1972年11月21日付毎日新聞)

【一文の事態について】

「休講が終わり、一応授業が開始される。2時限、H先生、クラス討論。また例の言い訳がましい実になんとも情けない光景が繰り返される。クラス討論も相変わらず惨憺たるもの。午後よりクラス討論連絡会議主催の集会が開かれ“Z”の全学態度表明集会に糾弾に向かう。その過程で、デマゴーグによって煽動されてしまい、スクラムを組んでジグザグなんか始める。“Z”の集会破壊に向かってしまう。デモ指揮がちょっと判断を誤ったのか意図的にそうしたのかはよく判らないが、“Z”の立て看を引っ繰り返す。この時点でしまったと思う。なんてバカだったんだろう。どうしてあんな軽はずみな行動に移ってしまったのかと思う。強圧的な集会破壊を糾弾したのは我々自身ではなかったのか。ミイラ取りがミイラになるとは……。」(『一文有志の記録』より)

【2J 11.8行動委員会結成】

クラス討論が進むなかで、川口君のいた2Jでは、「川口大三郎君虐殺の真相を究明し、革マルを断固糾弾する!」「当局——革マルの癒着体制を弾劾する!」という2つのスローガンを掲げ、2J11.8行動委員会を結成した。会の名称についてはいくつか案が出たが、「川口君の虐殺を真剣に考えるならば行動しよう」「刻々と変化する状況に求められるものは行動だ」という主張にみんなが共感して「行動委員会」となった。

【リンク】

クラス討論を深化し、更なる意思一致を!(2J 11.8行動委の結成) 2J 11・8行動委員会決議
クラス討論に向けて早稲田解放革マル粉砕(野口・みずき)