1972年11月17日(金)川口君追悼学生葬に4000人

提供: 19721108
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【概要】

午後2時から一文2J主催による川口君追悼学生葬が大隈講堂で執り行われた。壇上には笑顔の川口君の遺影が置かれ、献花する学生の列が続いた。同じ頃、大学当局は臨時学部長会議と理事会を開き、学内の秩序回復策をまとめた「11.7告示」を決定し、川口君のリンチ殺人事件に関する措置はこれで終わるとした。

【この日のできごと】

14:30 大隈講堂で川口君追悼学生葬が一文2年J組の主催で行われ、4000人が参列する。1分間の黙祷の後、2J代表の声明文に続き、浜田健三理事が村井総長名の弔辞を代読。大学側からの参列者は担任の長谷川教授と浜田理事ら極めて少数。村井総長は欠席した。母親のサトさんは祭壇へ向かい「余生をかけて大学当局の怠慢と暴力をなくすため闘います」と語る。
◎大学当局は臨時学部長会・理事会で「11.7告示」(早稲田刑法)を決定し、記者会見。

【「都の西北」で川口君を送る】

午後1時頃から集まり始めた学生で大隈講堂はいっぱいとなり、入りきれない学生は外で様子を見守った。それより少し前、まだ準備が始まったばかりの大隈講堂に「全学中央自治会」名で花輪が届けられた。「困る、受け取れない」と押し問答となり、準備を手伝っていた学生が木札を抜いて地面に叩きつけて割った。始まる直前には、喪章を巻いた田中敏夫前委員長が参列を申し入れ、認められて席に着いた。
午後4時、伊東から川口君の母親・サトさんが到着。会場からあがった「お母さんに謝れ!」の声に田中前委員長が前に立ってうなだれると、サトさんは、ハンカチで顔を覆い泣き崩れた。その後、壇上に立ったサトさんは涙ながらも「余生をかけて大学当局の怠慢と暴力をなくすために闘います」と語った。その当局からは、村井総長の弔辞を代読した浜田健三理事と担任の長谷川良一教授他数人と、参列者は少なかった。学生葬の最後には「都の西北」の大合唱で、生前「俺は早稲田が好きだ」と語っていた川口君を送った。

【川口君のお母さんの言葉】

川口君の母親・サトさんは、この時52歳だった。夫に先立たれて以来、保険の外交や伊東の競輪場の会計勤めをしながら3人の子供を育ててきた。川口君は姉、兄のいる3人兄弟の次男であった。
壇上に上がったサトさんは、時折涙で声を詰まらせながら会場を埋めた学生に話しかけた。「今日は、大三郎のためにほんとうにありがとう。大三郎がほれにほれぬいたワセダ精神を一日も早く取り戻して下さい。二度と暴力のないワセダを。(中略)わたしは大三郎という宝を失った。その宝をなくしたいまとなっては、余生に希望もなにもありません。しかし、残る余生を大学当局の怠慢と、暴力追放のために闘います」
学生葬の後、サトさんは大隈会館での記者会見で「大学からは、通夜に総長さんが見えられ『二度とこういうことのないようにします』などときまり文句をいっただけです。白昼、みんなの前で、しかも大学というところで殺されたなんて、まだ夢のようです。学校から納得のいくご返事がいただけるまで、(責任追及を)やるつもりです」と語った。(1972年11月18日付毎日新聞、朝日新聞より)

【学生葬における一文2年J組のクラス統一声明】

「川口大三郎君追悼学生葬に集まられた皆さんに
私たちの級友、川口大三郎君は革マル派によってリンチの末殺害された。
11月8日、川口君は12時過ぎに登校し、体育実技を受けた後、午後2時過ぎ、文学部キャンパスに戻ってきた。その直後、級友とスロープ下において談笑している時、革マル2名が川口君をとり囲み、討論することを理由に自治会室へ連れて行こうとした。それに対し川口君は「討論ならここでもできるじゃないか」と答えた。すると更に数人が来て、いやがる川口君をむりやりに、自治会室へ連れて行った。その後、川口君を助けようと駆けつけた級友に対して、暴行・脅迫が加えられた。級友数人は川口君の安否を気づかい、9時まで、構内で川口君を待っていたが、大学当局のロックアウト体制のため下校せざるを得ず、 各自の家で川口君からの連絡を待つことにした。しかし連絡はなく、翌朝川口君はパジャマ姿の死体となって本郷東大病院前で発見された。川口君の身体は、鉄パイプ、バット等で殴られたと思われる痕跡が50カ所以上見られ、全身の細胞が破壊され、ただれているという悲惨なものであった。
私たちは、級友川口君がこのような卑劣なりンチをうけ、20年の喜怒哀楽、思い定めた志、そして何か素晴しいことがあるかも知れず、無いかも知れない未来を断ち切られたことに痛憤と悲憤、何とも名状し難い怒りを覚えている。私たちの知っていた川口君、あの明るさと人一倍の正義感をもった彼が殺されていった。この不条理! そして、私たちが今まで革マルの暴挙を許してきており、その結果、川口君が拉致された時点において、抗議に行くことのみでその他のあらゆる手段を講じ得なかったために、 川口君を見殺し同然にしてしまった。このことは、生命のいとおしさに対する感覚すら麻痺させてしまっている私たちの内部にこそ問い返えさなければならない問題である。私たちは、彼の死に対してたとえようもないほどの負債を負っているのである
ここで私たちは、川口君を知っていた身近な者として、川口君が中核派のスパイであったという何の根拠もないレッテル貼りをされ、殺されていったことに怒りとともに口惜しさを覚えずにはいられない。革マル派は事件直後、「川口君が中核派のスバイ行為をやりそれを我々は集会中に摘発し、自己批判を迫ったが、その過程で突然ショック死してしまった」という、馬場革マル全学連委員長声明なるものを出している。しかしながら、彼らのいう集会は、5時30分から行なわれたという事実と、川口君が連れて行かれたのが、同日午後2時すぎで、集会場の文学部中庭には、当時いかなる集会も開かれていなかったことに着目すれば、 彼らのスパイ行為なるものは全く根拠のないものだということがわかる。そして、私たちは、私たちの知っている川口君がスパイ行為を行なうような人間ではなかったことを改めて断言する。
私たちが参加した、11月13、14日早朝にかけて夜を徹して行なわれた糾弾集会においても「一切の事実は国家権力との力関係で話せない。」と繰り返すのみで革マル派はダンマリ戦法をもって逃げきろうとした。更に私たちの級友が、深夜の寒さ厳しい集会場において命をかけ、あるいは土下座までして「真実を言って川口君の汚名を晴らしてくれ」という誠実な要求に対しても、全く反応を見せず、逆に居直るという革マルの態度を私たちは断乎ゆるすことはできない。そして、私たち早大生は、学内において思想・信条の違う人間をテロ・リンチによって排除、抑圧してきた革マルの姿勢を黙認し続けたのである。それと同時に、事件当日級友から電話で川口君救出の要請 があったにもかかわらず、何らの誠意も示さぬまま放置しておいた当局には私たちと同じ責任があるといえよう。ましてその責任を回避し、当然行なうべき 真相究明を怠り、逆に隠蔽していこうとしている当局の姿勢とは一体何物であるのか。その当局は、11月13、14日にかけての糾弾集会において、革マル派の人間の生命の危険を理由に機動隊を導入した。革マルの人間を救出する過程において2Jの級友にも暴行が加えられたという事実を大学当局はどう釈明するのか。以上の点に基づき、私たちは、今回、級友川口大三郎君がリンチ殺害された事件に対し、今までの私たちの態度そのものを痛苦にとらえ返すとともに、革マル派の思想・信条の違う人間をテロ・リンチによって排除・抑圧するという姿勢、及び大学当局の一貫した責任回避を断乎糾弾するものである。
私たちは、川口君の死に心からの哀悼の意を表するとともに、異なる思想・信条の持ち主をテロ・リンチなどの行為によって排除・抑圧することのない学園を築くことが我々に与えられた課題である。川口君の死をムダにすることなく、今この早大学内で盛り上がろうとしている気運をさらに発展させ、 真の自治会運動とは 何かを追求する運動へ。今こそ全学的に転化させることを決意するものである
川口君が生前口癖のようにいっていた言葉「オレは早稲田が好きだ。早稲田をどんなことでも自由に話せるような広場にしていきたい。」との言葉を私たち早稲田大学の学生はもう一度、自分の心に問い、新たな力としていかねばならない。(1972・11・17)」

【学生葬に参加して】

「どうしてヤジを飛ばす必要があるのか? 田中敏夫前一文自治会委員長に対する糾弾と学生葬における糾弾を同じくしてはならない。田中前一文自治会委員長への糾弾を田中君個人のみへの攻撃中傷で終わらせてはならない。彼個人に対する単なるウップン晴らしでは全く意味を持たない。全く不必要だ。新たなる学生自治を築く上での糾弾でなければ無意味である。」(『一文有志の記録』より)

【早稲田大学教員組合が村井総長に全学集会を申し入れる】

早稲田大学教員組合(773人)は、革マル派のリンチ殺人事件をめぐって、教職員や学生を含めた全学集会の開催を村井総長に文書で申し入れた。
申し入れ書では、全学集会の他「これまで学内暴力に対する組合側の抗議に適切な対応を示さなかった神沢惣一郎学生担当理事の責任を明らかにする」「リンチ殺人の犯人を自首させる」「教職員の意見を大学行政に反映させるため、週最低二時間、総長と教職員との面会時間を設ける」などを要求した。
また、「大学側が全体集会を行わない場合は、職員組合と協力して学生にも働きかけ、自主全学集会を開くつもりだ」と語った。これに対して大学側は、教職員集会を開くことは約束したが、学生を含めた全学集会は実りがないと、開催の意思がないことを明らかにした。(1972年11月17日付読売新聞夕刊より)

【当局の収束宣言】

学生葬と時を同じくして臨時学部長会議と理事会を開いた当局は、暴力追放、人身保護のため、「学内での一切の過激な行動には除籍、停学を含む断固たる処置をとるとともに、告訴、告発など法的手段にも訴える」「不法占拠の場所は、閉鎖する」「緊急事態発生の場合の通報網を設ける」など、学内の秩序回復策を決め18日、告示することにした。
大学側ではリンチ殺人事件に関連する措置は一応これで終わるとしており、教職員が要求している全学集会などを行う意思はないという。また、学生自治会の再建についても、学生自身の問題だとして大学当局は関知しないとの方針を明らかにした。(1972年11月18日付朝日新聞より)

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