11・8と14歳 第一文学部1年D組 F・S

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67年五月。ツッパリたちから週に一度ぐらい、校舎裏の防空壕前に呼び出されるようになった。6、7人に取り囲まれて難癖をつけられ、時には激昂した小柄な男から殴られたりした。体力で勝っていたのでパンチは堪えなかったけれど、孤立無援な転校先で何度もそんな目に遭うと、さすがに気が弱わって医者に神経性胃炎と診断された。予期せぬ恐怖心との戦いを自分は親にもうまく説明できず、14歳のプライドがずたずたにされかけた。しかも相手のリーダー格の母親は市議会議員で父親が大手新聞社勤めのためか、事なかれ主義の教師たちは手をこまねいて連中を強く戒めようとしない。その田舎臭い中学に早く夏休みがこないかと、毎日祈るような気持ちで我慢しながら通った。九月に新学期が始まっても事態は一向に変わらず、むしろ悪くなった。体育祭に向けた準備が盛んな頃、「体育祭の済んだ帰り道、袋叩きにする」という嫌な噂が耳に飛び込んできた。初めて身の危険が切迫するのを感じたが、救いの手はどこにもない。それで親戚のツテで住民票を川崎市から都下に移し、ある新設公立中学校の第1期生中三に辛うじて編入した。体育祭直前に姿を消して事なきを得たものの、なかばリンチのような数ヶ月間の憤りはいつまでも人間不信として消えず、自分が戦わずに逃げたという屈辱感もずっと付きまとった。
都立高校に通うようになって一気に世界は広がり、他校生と交流する中で、いつしかベ平連や新左翼の集会やデモに参加する機会が増えた。でもこれといった党派的な活動に熱狂的にのめり込むことは無かった。暴力的な屈折を味わって他人を疑り深くなり、イデオロギーに興味は抱くものの、政治活動の担い手の人格品性に否応なく目が向いてしまうからだった。
一浪後に入学した一文は一見無風に思えたが、日が経つにつれて自治会の連中が猫撫で声で過去の活動歴やら政治的関心に探りを入れてきた。自分たちの手に入れた聖域を侵されまいと必死だったのだろう。授業を終えても不穏な文学部構内には会話する空間も見つけられ無かった。余白を与えぬキャンパスはたちまち白けだして結局、デザイン研究会という教育学部地下に部室を持つサークルが夏頃から暇つぶしの場となった。理工の建築系学生と本女の生活デザイン系の女子学生が集う極めてノンポリティックスな会だった。毎秋、早稲田祭が近づくと予算が配分されて、正門内側に巨大なモニュメントをいそいそと設置するのが恒例行事になっていた。後から考えたら革マル自治会のお先棒を担ぐ太鼓持ちに他ならない。
あの事件が起きる数日前だろう。部員総出でモニュメントを深夜までかかって組み上げたのを覚えている。やがて突然、飛び込んできたのがリンチ殺人の報だった。一級上で同い歳の川口大三郎くんの死の経緯が明らかになるにつれて、5年前に自分が味わった暴力的屈辱感がフラッシュバックした。リンチの現場には必ず激昂する者が現れ、止める者がいなければより残虐性がます。6時間以上に及ぶ革マル派自治会の陰湿な暴行は、きっと幹部から末端まで様々な面々が入れ替わり立ちかわりで手を下したにちがいない。14歳の時と同じ情景と憤りが蘇り、19歳の多感な川口くんが自尊心を失うまいとぎりぎりまで暴力の痛みに耐えながら恐怖心と戦い、彼らを睨み返していた姿が目に浮かんだ。そして多勢に無勢という極限の拷問が続き、自白すべき事柄も屈服する理由もないまま、肉体が限界に達したにちがいない。暴力に押し潰されかけた14歳の理不尽な五ヶ月間と通底していると気づき、激しい怒りがこみ上げてきた。あのとき集団リンチによる川口くん虐殺の至近性を「他者」に上手に伝えきれなかったもどかしさが、40数年たった今も行動域で同心円を描いているように思うことがある。