川口君とJ組のこと 第一文学部2年J組 M・W

提供: 19721108
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★川口君とJ組のこと
都内の女子高を出た私にとって、早稲田大学に入ったことは人生初のカルチャーショックだった。
入学式の日、一同が教室に会して自己紹介。やけに落ち着いた10歳年上、「高校は出ていません」と強面の大検、一浪は当たり前、二浪、三浪、他大学の中退も数人いた。すでに世間の波にもまれ、いっぱしの面構えである。そんな中で、嬉しいような困ったような顔をしているのは現役組で、いかにも新入生という感じだった。その種々雑多な人の集まりと、教室の机に並べられた誕生会のようなショートケーキとコーラ(だったと人は言うのだが…)の組み合わせが、今でも違和感として残っている。あれは自治会からの差し入れだったと後から聞いた。
川口君は現役組だった。伊東高校出身の同級生も一緒だった。当時はまだ男子の学生服姿が多く、クラスにも数人いた。最初の頃は、川口君も制服姿だったように思う。そのうち、Gパンに下駄もしくはスニーカー(当時はズック?)でやってくるようになった。授業の始まっている教室に下駄音高く入ってきたのを教師に咎められ、さっと裸足になって、脱いだ下駄を手に教壇まで出席票をもらいに行ったのは、川口君だったかもう一人の下駄男だったか。
学費を自分で稼いでいたこともあって、川口君はいつもバイトで忙しそうだった。ただクラス討論の時にはいて、率直な意見を言った。クラス委員選挙の時に自治会派の立候補者に「×」を付けたエピソードは、多くのクラスメートが記憶している。とくに狭山裁判には関心が深く、Jの仲間と切ったビラをクラスで配っていた。別のルートで狭山裁判の支援をしている同級生と議論をしたり、クラスに呼びかけて、有志と東京高裁まで出かけていったりもした。社会問題に関心がある正義漢という印象だった。
Jというクラスについて言えば、真面目に授業にだけ出て帰る勉強組と、授業も出るけれどお茶ぐらいなら付き合う中間派、代返頼りのサボリ組といった具合の約60人。年齢的には一浪、二浪が多く、男女では女子が12人と少なかった。自分のことに話を戻せば、世間知らず丸出しで「狭山事件って何?」と思いながらも、熱心に語る川口君や同級生の話を聞くうちに、部落差別がごく身近な問題であったことを知り、無関心で過ごしてきたことを恥ずかしく思った。これまで読んでいた本など本のうちに入らないということが何よりの驚きで、追いつきたい一心で高橋和巳の『わが解体』を読んだりもした。授業は退屈、ちっとも頭に入らない。女子高出の学力では歯が立たないと諦め半分、すっかり勉強への興味がなくなり、中間派からたちまちのうちにサボリ組へ転向した。
クラスにはすでに高校時代に学生運動を経験した人もいたし、「あいつは民青だ」と言われている人もいたが、クラス討論で多少議論にはなっても、意見が一致すれば狭山裁判の集会へ一緒に行くような、平穏なクラスだった。自治会からのオルグが来た時も、党派への敵対というよりは、論点を巡っての議論になったように思う。川口君の他にもはっきり意見を述べる人間は何人かいたが、運動家というほどのことはなく、狭山裁判にしろ、基地闘争にしろ、当時の社会問題にきちんと向き合っていくべきだという人間が多かった。逆に党派色を伺わせる人間は、よほどのことがないと口を開かなかった。
1年の冬休みには、本庄の宿泊所で合宿をした。一応のテーマは学費値上げ反対闘争。勉強組は来なかったけれど、中間派とサボリ組が10数人集まって、よく話し、よく飲んだ。川口君も合宿に参加して、大いに語り、飲んでいた。色白の川口君は今で言えば歌舞伎顔。お酒が入ると目の縁が赤くなり「お前なぁ」と声も大きくなる。女の子に話す時は真っ赤になるくせに、男同士だと威勢がよかった。男女混合の気安さもあって、合宿の時は川口君との言葉のやり取りも多かった。この時だったか、資金集めの相談をしたのは。Jは、2年続けて入試の時に合否電報をみんなでやって、けっこう活動資金を集めたのだ。
記憶の中に、クラスの数人と一緒に穴八幡から文学部を眺めていた風景がある。そこには川口君もいた。天気のいい暖かい日だった。授業が休講になったのだろうか、みんなのんびりしていた。川口君とN君と3人で上野の博物館へ一緒に行ったこともあった。すっかり忘れていたのだが、川口君が恐竜の骨格標本を見てたいそう喜んではしゃいでいたとN君から聞いて、少しずつ思い出した。バイトに忙しい川口君にも、そうした学生らしい時間があった。
★11月8日からのJ組
11月8日は、学校の近くまで行っていたけれど、一文には行かなかった。
翌9日、昼前にN君から「川口が革マルに拉致されて、昨日は家へ帰っていないらしい」という電話があった。正午を待ってNHKのニュースを見ると、画面に川口君の顔写真が出て「東大構内でパジャマ姿の男性の死体が発見され、早稲田大学在学の川口大三郎君であることが確認された」と報じられた。すでに昼過ぎに革マル幹部が記者会見を開き「川口君は中核派スパイだった」と発表していたことは、学校に着いてから知った。
2時からの授業は杉本先生の中国語だったが、先生の許可を得て、授業はクラス討論へと変わった。「川口は中核じゃなかった!」「なぜだ?」「どうすればいい?」
8日の午後、中庭で拉致の現場を目撃したクラスメートがいた。自治会室まで行って川口君を連れ戻そうとして、革マルに追い返されたうえに殴られたクラスメートもいた。事実関係を明らかにしようと話し合っていたその最中に、「話を聞いてほしい」と革マル数人がやってきた。「お前達の話など聞く必要はない」「いや、聞いてくれ」「帰れ!」と、教室の入口で押し問答となったが、革マルは強引に入ろうとはせず、そのまま引き下がった。Jの一人として川口君が狙われたなら、他のメンバーも危ないのではないかという意見も出て、夕刻、教室から集団で下校し、新宿の喫茶店で引き続き話し合いをした。
翌日10日からは、クラスメートの知人の家を借りて、学校へはレポを送り、ビラを切り、高田馬場での情宣活動を始めた。10日には川口君の通夜、11日には告別式が行われたので、参列組と留守番組に分かれ、留守番組は学生葬に向けての追悼文の原案を書いた。このアジトのおかげでJの活動ができた。レポセンにもなり、会議もでき、ビラも切れた。学内ではどこも安全が保障されていなかったし、最初の3日間をJが無事に乗り切れたのは、このアジトがあったからだ。
最初のビラはB5判で「川口を返せ!」の見出しと、「川口君は中核派ではなかった!」と、スパイの汚名を晴らし、自治会革マル派を糾弾する内容だった。週明けの13日午前中、高田馬場でビラ撒きをした。11日に本部で一文自治会の田中委員長の糾弾集会があったが、まだ一文構内で「2J」の署名入りのビラを単独で配るには危険が多かった。喫茶店を連絡先に、本部と一文の革マルの動きをレポしながら短時間で撒いた。時系列資料によれば、同じ13日に、一文と教育の有志が革マル派糾弾集会結集への呼び掛けのビラを配ったとある。
何がJを突き動かしていたかと言えば、それは怒りだった。クラスメートを殺されたことそれ自体よりも、川口君に「中核派」というレッテルを貼ったことに対して怒っていた。教育の15号館、政経の4号館と、一文の拠点が移るのと一緒にJも移動したが、勉強組の女子が一文の革マルの動きを見に行ってくれたこともあり、何らかの形で協力してくれる人も多かった。
協力といえば、父兄の一人が数カ月にわたってJと行動を共にしていた。元新聞記者で、16日にJの有志が私学会館で行った記者会見を設定したのもその人だった。ネタになりそうな匂いをかぎつけたのか、単に娘の身を案じていただけなのか、今もってわからないが、当時は「話のわかる大人」として周囲にも受け入れられていた。この記者会見には10人近いクラスメートが出て「川口君が中核派でないこと」「革マル派糾弾」を訴えた。
Jが言いたかったのは、川口君が中核派ではなかったこと、そして、それを口実に拉致監禁そして殺害した革マル派にその罪を認めさせることだった。稚拙な言い方をすれば、「悪いことをしたと認め、きちんと謝れ」ただそれだけだった。毎日がめまぐるしく変化し、これまで話したこともない人たちと一緒に議論し、行動し、隊列を組んで文学部へ入ろうとして門扉に阻まれ、革マルに押し返された。気がつけば、臨時執行部選出、自治委員選と、「自治会再建」へと大きく運動の舵が切られていった。


★1973年?現在
40年経って、クーデルカの写真展でプラハに侵攻したソ連軍の戦車の前に座り込む市民の写真を見た。圧倒的な戦力の前に肉体はあまりに無力なのだが、人々の顔には静かに迫る怒りと深い悲しみがある。その写真を見て、本部で開かれた徹夜集会を思い出した。壇上で沈黙し続ける革マルへ対する怒り。どんな問いかけに対しても無言を通し続けるその背景にある組織力。どんな理論が、人をして他者を死に至らしめるほどの力を持つのか、行動を正当化する方便を生み出すのか。その理不尽さへ対する怒りは今なおある。
その後のことは、時系列の整理の際に明らかになっていた通りである。とはいっても、私自身は、翌73年の4月までしか参加していない。連日の終電帰りと外泊で、預けられていた親戚との間で揉め、家出同然に飛び出し、付き合っていた同級生の家へ転がり込んだ。仕送りを止められ、アルバイトの掛け持ち暮らしとなった。学校のことも考えられず、財布の中の小銭を数える毎日だった。
学校に戻ったのは、1年後の74年4月。JのF君が「もう大丈夫だから戻ってこい」と、バイト先まで来てくれたのがきっかけとなった。すでに押しかけ同棲は破綻し、父に頭を下げて仕送りを再開してもらってはいたが、先のことは何も考えていなかった。ただ、その年の年賀状にあった「せっかく入った大学なのだから卒業だけはするように」という伯父の一言に動いた心があった。
1年ぶりにスロープを上るのは怖かった。初日はF君が待っていてくれて、一緒に行った記憶がある。革マルの検問で「お前何しに来た」と絡まれたのを、「うるさい、授業に来たののどこが悪い。通せ」と言い返してくれた。当然のように一般教養の単位は足りず、1年がかりでようやく専攻へ上がったが成績不良で希望の日本史へは行けず、人文と文芸の二者択一となり文芸へ行った。実のところ、この学校へ戻ってからの日々は一番苦しかった。川口君の死によって盛り上がった運動は跡形もなく、革マルが何事もなかったように跋扈している。ゼミの同級は、入学式の時に情宣に入った行動委のメンバーに「帰れ!」を連呼した、まるっきりルーツの違う人種。すでにJの同級生たちは卒業していて、行動委系の顔見知りもまったく見かけない。唯一の救いは、一文前の喫茶店「あかね」に行けば他学部の顔見知りやJの留年組に会えたことだった。何を話したということはなかったけれど、かつて仲間だったというある種の安心感があった。
40年経って一文で11.8の会を持つようになって思うのは、当時、私たちは「何をしたかったのか」「振り上げた手をどこへ打ち下ろそうとしていたのか」ということ。革マル派に、そして大学当局に運動を阻止され、散り散りになってなお、その手を振り上げたまま生きてきたのではなかったか。会の今後を話し合う時もまだ、振り上げた手の行く先が見えていない、そんな気がしてならない。
自分史的な観点から言えば、73年春から極めて個人的な理由で戦線を離脱したことを悔いている。川口君に対して、虐殺糾弾の闘争を最後まで全うできなかったことを申し訳なく思っている。
そしてもう一つ、ずっと考えていることがある。私たちは入学以来、立て看の並ぶスロープを上り、ビラを手に押しつけられ、トラメガの演説(?)を聞かされ、「全学連」と書かれたヘルメット姿を毎日見ているうちに「これが大学なんだ」といつの間にか思うようになった。そして、日常化したその風景の中に川口君の命を失った。
もし、自分が拉致の現場にいたらどうしていたか。川口君を取り戻そうと、必死になってあらゆる努力をしただろうか。それだけの危機感を持っていただろうか。