「胸を張って『大三郎は真の男だった』と言える」(母)

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大ちゃんが死んだ、あの子が殺された。そんな馬鹿な!!
毎日元気に学校へ行き、力一杯アルバイトをしていた大ちゃんが。
だいいち2、3日前「お母さん友達を連れて天城を案内するから、その時はたのむヨ」と元気な声で電話があったばかりではないか。何かの間違いだ、間違いなんだ。エープリルフールかな、いや、今日は11月9日だ。
私は一瞬、冷蔵庫の中へ頭からつっこまれた様な気持になり、全身悪寒がはしり、あたりの物音は何も聞こえなくなった。
でもそれは悲しくも現実だったのだ。本当に起ってしまった事だったのだ。この怒りと悲しみ、最愛の子供を殺された母のなげき、皆さんもやがては人の子の親となる。その時やっと私の今の悲しみの半分位わかってくれると思う。後の半分は、やはりこの様な目にあわされた者でなければとうていわからない。
人殺しカクマル、クタバレ教師、クタバレノンポリ。
「一日も早く元気になって下さい」東小学校と書かれた袋に入った給食のパンを、今日もお友達は届けてくれた。大ちゃんは布団の中から亀の子の様に首を出し本を読んでいる。赤ちゃんの時は伊東市の健康優良児で表彰されたくらいなのに、この頃ではすっかり病弱になり満足に学校へも行かれない。そのかわり熱が下がると待ってましたとばかり元気に学校へ出かけて行く。そんな彼なのに成績はいつも首席。そして出来の悪い子の算数や国語を見てやる。受持の先生は、そんな彼に「教育係」と言う名前を付けた。
そして彼にとって第一回目の不幸がやってきた。5年生の春、父親は病気のため大ちゃん一家を置いてきぼりにして、サッサと天国へいってしまった。お姉ちゃんが高校2年、お兄ちゃんが中学3年、私は子供達を連れて来た。私は3人の子供のために夢中で働いた。
海辺よりも山の方が彼の身体に合っているのか、引っ越して来てから少しずつ大ちゃんは丈夫になっていった。
「お母さん、僕、クラブは運動部にしようと思う」と言ってバレー部に入部した。
今日から大ちゃんは市立南中学校の1年生。学校は家から5、6分。富士山の良く見える坂道を下るとすぐ学校。放課後、暗くなるまで毎日、毎日元気にバレー部で活躍。いつのまにか生れ変った様な丈夫な子になり、誰が見ても片親で育った家庭の子とは思われない底抜けに明るい元気なクラスの人気者になっていった。もちろん成績もやはり首席、そしていつのまにかクラスの相談役的存在になっていた。
私はその頃から大ちゃんと伊豆の山や海、自然を求めて野山を歩き回る様になった。
そして私はいつも「らしく」という事をやかましく言った。つまり男は男らしく、女は女らしく、学生は学生らしくといった具合に、人間「らしく」という事をふまえて行動したら先は間違いないと思う。「らしからぬ」ことを言ったりするから問題が起きるのだ。そして男が一たん口から外へ出した事は何が何でも実行しろとも言った。人間、責任という事を忘れては駄目だ、とも言って聞かせた。私が玉をみがくように育てた彼は日一日とたくましく成長していった。
S43.4、県立伊東高校入学。入学と同時にアコガレの山岳部に入部。又々放課後、暗くなるまで砂袋をかつぎ浜を飛んだり、学校の隣の仏現寺の長い長い階段を、ウサギ飛びをしながら登ったり降りたり、高い石垣をよじ登ったり、来る日も来る日も山へいどむ技術の訓練と体力作りに励んでいった。
桜の花の咲き誇る4月、目出度くあこがれの早稲田へ入学した。それこそ胸ふくらませて好きで好きでたまらなかった早稲田へ--卒業したらジャーナリストになるんだと、高校時代から早稲田速記もやっていた。そして2年たつかたたないうちに彼は早稲田の舎で命をたった。うそだ、夢なんだ。私は今でもそう思う。大勢の若者の中にきっといる大ちゃんは。冬休みや春休みが来ると私は想う、あのニコニコした顔で茶色のショルダーバッグを肩に、今日は来るか、明日は帰るかと……。春の彼岸がめぐって来た。
今日も大ちゃんのお墓の前には、きれいなお花とお線香がそなえてあった。お友達が参ってくれたのだ。
大ちゃんは、生ある時も天国にあっても常に人に好かれる人間だった。だから私は親として声を大にして、胸を張って「大三郎は真の男だった」と言えるのです。
(早大学生新聞会記載)