「故川口君の当新聞会活動について」(早稲田学生新聞会)

提供: 19721108
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1971年4月3日の夕方。うす暗くなりかけた本部キャンパスの大隈銅像のわきで、私は机に「新入会員募集」の看板をたてかけながら、たまに通りすぎる新入生を勧誘していた。例年各クラブ、同好会が新入生獲得のためにする、あの昼のにぎやかさもその時はもうなく、勧誘の“出店”を出していたのは、他に2、3のサークルしかなかった。
その頃、私はこの新聞会に限りない希望と使命を見い出し、昼夜の別なく熱中して記事書き、取材広告とりをやっていた。1ヶ月20万に近い印刷代を広告でまかなうということは容易なことではない。そればかりではなく、印刷所からゲラ刷りをもらってき、その夜は目を通し訂正して翌朝、再び印刷所まで持ってゆかねば間に合わないのである。このような状態であったから、出来あがった新聞には、目をおおいたくなるような誤字もよくあった。とくに大みだしなどで失敗した時などは、もうその新聞を全部回収して、人目にさらしたくないと思ったりしたものである。なんせ、その頃の睡眠時間は、4、5時間しかなく、それでもやってゆけたのは、希望に使命感に燃えていたからだと思う。
そんな訳で、夕方になっても、私は一人「新入会員募集」の看板をたてながら、がんばっていた。キャンパスを通る人影も少なくなり、そろそろやめて引きあげようか、と考えていた時である。故川口大三郎君が、ヒョコヒョコと近寄ってきた。そしていろいろと新聞会の様子をたずねる。見れば、長髪で少し不潔な気もしたが、色白で端正(?)な顔つきをし、ときどき私になげかける視線は正視してそらさなかった。(なかなかスルドイ新入生だな…)というのが、正直な感想だった。
「当新聞会は早稲田大学建学の理念に基き、新しい学問の創造とその活用をもって理想社会建設に貢献することを目的とする」というのが新聞会の編集方針であったから、私はこの立場から当時の早稲田の現状となすべき改革について彼に幾分説教調でもって話した。彼は黙って聞いていたが、その時男としてどう感じていたかは彼の日記に記されている通りである。いろいろ話をしたが、結局、その場では入会せず、後日、返事するということになった。2、3日後果して彼は入会すべく再び訪れたのである。
恒例の「新入生歓迎合宿」が5月の連休、伊豆半島の温泉町修善寺の「水月ホテル」でもたれた。大三郎君は、あいにく風邪で寝こんでいたため参加できなかったが、電話では母親のサトさんがその旨を告げ、とても残念がったのを憶えている。
その後、彼は大学近くにあった事務所に顔を出すようになる。広告取り、取材に関する基礎指導が一段落ついた頃、おりしも早慶戦の時がきた。彼はぜひ見にゆきたいと言っていたので、まず「観戦記」を取材してもらうことにした。時の編集長、山田君と一緒に彼は「神宮の森」へ出かけた。それが記事となった71年6月5日第9号の彼の観戦記である。人一倍愛校心のあつかったことはその記事を読んでもらえれば理解してもらえると思う。彼はよく、友人まで事務所につれてきたりして、夕食に財務部長の井口君のつくったカレーライスをともに食べ、歌を歌ったりダベリングをしたりして事務所に泊まってゆくこともしばしばであった。この頃は長髪をやめカクガリの古風な顔をし、大変義理がたい男、というのが印象だった。思えば、新入会員のなかで、生活的には一番しっかりした考え方をもっていたと思う。(彼は学費、生活費の大半をアルバイトでかせいでいたと思う。)
その後の彼は「早稲田精神昂揚会」とうちの新聞会とに籍をおき、一方では、アルバイトという学園生活を送っていた。1971年の11月、彼は学費値上げ反対運動、更には革マル反対などをクラスでやったりしていたと思う。事務所にきて、いろいろと文学部の現状に不満をもらし、場合によってはそのことで大学をやめるようになってもいい、とさえ言い切ったのをおぼえている。この頃から、彼は社会問題、部落問題等に関心を持ちデモにもたまに出かけていたようである。
最後に会ったのは昨年の夏休み直前である。一文のスロープ傍の中庭で、2時間ぐらい話したのが生きて会った最後となってしまった。彼と意見が一致するということはあまりなかったけれど、「早稲田」という一点ではつねに手をにぎりあえる仲だった。
(早稲田学生新聞記載記事)