◇年譜

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昭和27年8月25日 静岡県伊東市八幡町にて誕生。一姉、一兄の3番目の次男。市から健康優良児として表彰される。
昭和32年4月 野間自由幼稚園(私立)に入園。3年保育。ところが敗血症にかかりほとんど通園できなかった。
昭和34年4月 伊東市立東小学校入学。4年生の時、肺門炎にて2学期休学。自宅療養。5年生の時、父が病死。逆川へ転宅。
昭和40年 伊東市立南中学校入学。1年次バレー部入部。体を丈夫にすることに専念する。休日のたびに友人たちと近くの野山へ行ったりサイクリングに出かけたりした。大晦日から元旦にかけては、これらの友人たちと餅を持って潮吹海岸に出かけ初日の出を拝むのが恒例だった。成績は1~2番。クラスのまとめ役、相談役だった。
昭和43年4月 静岡県立伊東高等学校入学。山岳部に入部。2年次には部長となり後輩の面倒をよくみた。同年後期に生徒会山荘委員長。日本育英会特別奨学金採用試験に合格。ジャーナリストを希望して早稲田大学の一文を受験し合格。
昭和46年4月 早稲田大学第一文学部入学。姉の嫁ぎ先(川崎の土建業)へバイトを条件に下宿。入学時以外の必要経費すべてを自分で賄うことになる。早稲田大学学生新聞会に入部。5月には早慶戦を取材し、6月5日号に早慶戦観戦記を掲載した。6月になって新聞会の人の紹介でキリスト教修練会に参加した。この頃、この新聞会が勝共連合であることを知り、その後の新聞会活動はなく、退会の有無も不明。9月、早稲田精神昂揚会に入部。翌年1月まで活動。この間に例会で部落問題を扱った発表をしたが支持されなかった。3月には学費値上げ問題に対する同会との意見が合わず退部。クラス討論で学費値上げ反対の意見を述べるなどクラス活動にも積極的で、自治会のクラス担当者(革マル)と議論することもあった。
昭和47年4月 中核派系の狭山差別裁判の集会に参加。同裁判について積極的に学習し、クラス討論や支援デモへの参加など、級友とも活動した。中核派から集会参加の勧誘を受けるようになり、7月には同派の電話勧誘を迷惑だと周囲に話していた。8月、広島の原水禁デモに参加。10月、高校の教師になって後輩育成に努めようかと、家族、友人に話す。伊東高校山岳部の後輩と北アルプスへ行く。
11月6日 友人を天城に案内すると実家に電話する。
11月8日 早稲田大学構内にて革マル派学生によって8時間に及ぶリンチの末惨殺される。享年20歳。