※図書館裁判闘争※

提供: 19721108
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図書館裁判冒頭陳述から

11.19図書館占拠闘争で逮捕された14人の裁判闘争を支援する「早大11.19図書館占拠闘争公判対策委」が組織された。すでに早稲田統一救対は機能していなかったため、各学部の有志によって救対活動が行われた。この対策委によって機関紙が発行され、現在「光る風7」「サンキュロット8」「サンキュロット9」が資料として残っている。その中に記録されている裁判の冒頭陳述には、図書館占拠の目的、実行に至る学内の状況、当局の管理支配体制に対峙する姿勢が記されている。占拠闘争そのものは機動隊導入によって早い時期に阻止されたものの、裁判において、早稲田当局の管理支配体制によって生じた川口君リンチ殺人事件、そしてその後起きた虐殺糾弾闘争、自治会再建運動、さらにそれに対する当局、革マルによる弾圧について語ることで、司法の場において大学当局との闘いを展開しようとした。
東拘4219号
●強固な大衆総武装の実現をもって、早大闘争の深化を克ち取れ●
「11.19早大図書館占拠闘争とは、まさしく1年有余に亘たる早大の大衆的な運動*管理-支配体制解体へ向けた闘いを葬り去らんとする権力-当局-革マルの『秩序化』策動、即ち第3次早大闘争の『終了宣言』としての早稲田祭=虐殺者の祭典を粉砕し、また5.17逃亡を許さず全学総長団交を実現することを実態的な獲得目標として遂行された闘いである。(途中省略)我々は改めて川口君虐殺が革マルの学生支配という日常活動の必然的帰結であり、突発的なことなどでは断じてないし、また管理支配の強化の中で川口君の死が必然化されたことを認知すべきである。そして1年有余にわたる闘いの中でおびただしい流血と無数の犠牲を強いられながらも苦闘の連続の中で確固たる抵抗陣形を作り上げたことを確信すべきである。川口君一周忌をめぐる闘いは早大管理体支配制の可視-不可視の暴力を永遠に葬っていく闘いの永続化のうちに、唯一闘いの根拠を見出せるものであることを証左した。まさに虐殺者の祭典=早稲田祭中止、全学総長団交実現の二大スローガンを掲げて我々が展開した11.19早大図書館占拠闘争はその実践的思想的模索であり、したたかな学生大衆の抵抗運動の持続的過程であり、絶え間ない大衆叛乱の予兆でもあるのだ。もって我々は早大闘争の正当性を確信し、権力の不当逮捕、不当起訴を弾劾するものである。最後に、我々は川口君虐殺の真実をあらゆる手段と方法をもって明らかにしていくとともに、管理支配体制との激突-解体を目指して、不断に抵抗運動を推し進めていくことを宣言する。強固な大衆総武装の実現をもって、断固として早稲田闘争の深化を克ちとれ!」
東拘4228号
●11.19早稲田図書館闘争万歳!●
「この建造物侵入事件なるものは、『故なくして人の看守する建造物に侵入した』という単なる刑事事件として、72年11月8日川口君虐殺以降の早稲田における闘いと全く切り離し、また、その刑事事件なるものも、図書館に入ったことが刑法上の罪になるという、全く馬鹿げた、早稲田の学生が自分の大学の図書館に入ることが罪になるというでっちあげ、その裏には、なんとかして闘争主体を弾圧し、早稲田の叛乱を鎮圧すべく起訴-長期勾留により、一人ひとりを分断し、大衆から切り離し、転向を強要し『秩序』を守ろうとする大学当局-検察庁の予防拘束的意図があることをまず暴露しておきたい。(途中省略)最後に第1回公判をふまえ付け加えるならば早稲田大学の建物でその他に占拠されている建造物はないのかという弁護人の釈明に対し何も答えない検事。第一学館が革マルに明らかに私物化されているにもかかわらず。このような検察庁-大学当局-革マル一体となった早稲田大衆運動の圧殺に対し、我々は大衆的包囲戦でもって当局を追及し、革マルを早稲田から放逐していくだろう。革マルのような党派に管理することの不可能な叛乱大衆は、必ずや早稲田に永続するだろう。学生大衆の前に一度も姿を現さない『総長』『理事』を許しはしない。」
東拘4227号
●大衆叛乱の永続化をかちとり、早稲田管理支配体制を解体せよ!●
「11月19日の早大図書館闘争は、川口君の虐殺と、虐殺糾弾の怒りの叫びを持って開始され、現在に至る1年有余にわたり闘い続けられている第3次早大闘争を語らずして語ることはできない。少なくとも『学問の府』なるお題目を唱える大学のシンボライズされた存在として、私学随一の蔵書量を誇る早大図書館へ躊躇なく機動隊を導入し、我々の戦いを圧殺せんとしたごとく、学園の平穏な秩序を維持せんがためには如何なる代償をも惜しまぬ大学当局は、69年には、社青同解放派を陰惨な個人テロで早稲田から放逐することで早稲田における党派闘争を完了し、民青と共存しながら学内の暴力的一元支配を推し進める革マルを自らの学内秩序維持策動に繰り込むことで、早大の擬制の秩序を維持せんとしてきた。革マルは、この大学当局の策動の範疇でのみ許容される補完物として、そしてそれだからこそ、大学公認の学生大衆の管理者として自治会、文連等の名のもとに、権力の行使者として立ち現れ、革マルの党派利害と相容れぬものに対しては、恫喝、テロ、リンチで思想と行動の監視と、肉体的にも抹殺する学生の恐怖支配を貫徹していった。そして、早稲田の学生大衆は一切の発言、自己表現を奪われ、沈黙の中に無気力な学園生活をおくることを余儀なくされ、この情況を断ち切らんとする学友の頭上には容赦なく鉄パイプが振りおろされ、あるいは密室へ拉致してのリンチで、幾多の学友が傷つき血にまみれ早稲田を追われていった。早大当局言うところの平穏な秩序とは、革マルに圧殺された学友の流血で日常的にあがなわれているものでしかないのである。この革マルを尖兵とした学園の平穏な秩序を維持せんとする早大管理支配体制は、その必然的帰結とも言うべき山村政明君の抗議の焼身自殺、そして72年11月8日川口君の虐殺への過程を辿ったのである。(途中省略)この我々の11.19図書館闘争に対して、早大管理支配体制は、あの川口君を虐殺しさった牙をむき出しに襲いかかり、これまでの数知れぬ闘いを圧殺しさったように、我々を警察-司法権力を総動員して闇から闇へ葬りさらんとしている。だが早大管理支配体制が解体されない限り、真実を語れば世界が凍りつくどころか、真実を語れば血の海になる早稲田の虐殺の日常が永遠に続く以上、我々は易々と葬られる訳にはいかぬ。東大・日大闘争の質を受け継ぎ、すでに学園の平穏を維持せんがための学生大衆の管理者として立ち現れていた革マル、民青と厳しく拮抗しつつ闘われた第二次早大闘争の全共闘大衆の苦い怨恨を残しての敗北以後の有形無形の重い沈黙と抵抗の歴史を背負い、自らが許し甘んじざるをえなかった異常な日常への闘いとしての第三次早大闘争の進撃は、今やみくもに虐殺の日常へと回帰せんとする当局-革マルの策動を許しはしない。そして、11.19闘争が、川口君虐殺を契機とした第三次早大闘争の一環として、虐殺者の祭典=早稲田祭の中止と総長団交に即時応じよ、という要求を明確に提示して闘い取られたにもかかわらず、起訴状に見られるごとく『図書館を占拠する目的で鉄パイプなどを振りかざし乱入す』なる恣意的歪曲を行うことで、一切の第三次早大闘争の歴史過程と思想的営為を、またその中における11.19闘争の位置を捨象し、ブルジョア法体系の中の一個の刑事事件として抽象して処理することで、我々の闘いを抹殺し、早大闘争への弾圧をなさんとする警察-司法権力とは、1年有余にわたる川口君虐殺糾弾の闘いの11.19闘争の正当性を明らかにすることでまっこうから対峙し、彼らの策謀を水泡に帰するだろうことをここに明言して、意見陳述を終わりたい。
東拘4225号
●11.19闘争冒頭陳述●
「われわれは今、大学から離れ、法定という場において闘いを始めることをしいられている。この法廷における闘いは、われわれが昨年11月19日、カクマル「早稲田祭」粉砕、「総長」団交要求を目的として決行した図書館占拠闘争の敗北の結果である。大学の学問の象徴として存在し、また過去の学内闘争においても封鎖からは無縁な建物であり、常に聖域であり続けた「大学図書館」を占拠するという闘いに大学当局は恐怖した。それゆえ、彼らのシンボルである図書館が機動隊に犯されるという事態を容認し、国家権力の手にわれわれを売り渡したのであった。そして占拠後数時間してわれわれは闘う学友とまみえることなく、深夜、当局によるロックアウトの中、逮捕されたのであった。この敗北は、早大闘争を闘ってきたわれわれが全存在をかけて表現しようとした運動におけるものであるがゆえに根底的なものであった。(途中省略)川口君が連れ去られた時、わたしも含めて何人かの目撃者は抵抗すらできず複雑な思いで見守ることしかできなかった。一人川口君と共にいた学友がすぐに抗議したが、別の革マルに囲まれ殴られてしまった。その時のわたしの考えとしては、リンチをされたとしてもすぐに帰されるだろうという思いだった。このような考えは、全く安易なものであり、革マル派の暴力支配に妥協したものであった。早稲田においてカクマル派に暴力的な行為を受けた学生はかなりの数になり、わたしが見聞きした限りでも、日共系の学生、共青系学生とカクマル派との間に暴力的な状況があった。それゆえ、一人の学生が拉致されるという異様な光景にもかかわらず、阻止する行動が起こりえなかったのである。この日以後の、わたしの早稲田における闘いは、カクマル派による川口君の拉致と虐殺を許してしまったことの自己批判の内実としてある。11.19図書館占拠闘争後も真に川口君虐殺の問題が解決されるまで闘っていくことを最後に明らかにしたい。」


【公判日程】

1973年11月19日  逮捕
100余日拘留
1974年3月6日 第1回公判(冒頭陳述)
 13日 第2回公判(冒頭陳述)
4月17日 第3回公判(検事側冒頭陳述他)
5月17日 第4回検事側証拠調べ
7月3日
9月25日 第7回公判
10月11日 第8回公判
1976年1月26日 結審


【リンク】