11・8について 第一文学部2年J組 K・F

提供: 19721108
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1972年11月8日、川口も私も20歳の大学2年生でした。でもその日を境に、川口はその生を不本意かつ理不尽な形で断たれてしまい、私は63歳の現在も生き続けています。
11月8日、私が文学部構内スロープ脇の階段の前で、映画会の立て看板を書いている時、川口が「久し振りに体育の授業に出たらケツが痛い。」と明るく話しかけてきて、そのまま階段を上がっていきました。
暫くすると、同級生から「川口が革マルに連れていかれた!」と言われ、「何で?」と思いながら、当時自治会室化していた127号教室に、川口奪還の為向かいました。
「何で?」と思ったのは、以下の理由です。
川口が部落差別問題を仲介にして、中核派と接していたのは事実です。しかし、1972年9月頃から、「中核派はダメだ。彼らとは一緒に行動できない。」と私にも明言し、かつ、彼らとの接触を断ってきていたのも紛れもない事実です。だから、革マルは何で川口を拉致するのだろう、と思ってしまったのです。結局、川口奪還どころか、私は革マル派の連中に暴行されつつ追い返され、更に階段下の部室にまで来て、追い打ち暴行を受けました。
周到に準備されていた川口の拉致、奪還に行った私への執拗な仕打ち、革マル派の連中の半狂気な目、それらを考え併せれば、彼らが川口を殺すかもしれない、いや殺すだろうと判断するべきであったと思います。でも、私はそういう状況でも、「何で?」、「殺されることはないよな。」と安易に考えてしまい、川口奪還の次の手を打つことを放棄しました。
翌日11月9日、牛込警察署に呼ばれ、そこで川口の死に顔を確認した時、申し訳ない、私がきちんと対応しなかったことで、一人の有為な男の人生を20歳で終わらせてしまった、という自責の念に駆られました。その気持ちは、強弱の差はありますが、43年経った今でもあります。特に、毎年11月8日を迎える時期になると、その想いが強くなります。
大学を卒業後も、その時期になると、毎年の様に伊東にある川口の墓参りに行っておりました。たまにその場で川口のお母さんにお会いした時、「F君、元気そうね」と声をかけられるのですが、それが却ってとっても辛かったです。(私はこうして元気で生きているが、このお母さんの息子は、不本意かつ理不尽にも殺されてしまい、20歳でその生を終えた。)今は、そのお母さんも亡くなり、川口の墓所も他の場所に移ってしまったので、少しずつ薄れてきてはおりますが、これは一生拭い去れないのではないかと思っています。
川口の虐殺から数日経った11月11日ころから、全学的に「川口虐殺糾弾・早稲田解放」の運動が繰り広げられていきました。私はというと、川口の葬儀が終わった後、東京に居ることが耐えられなくなり、1週間ほど田舎に帰っておりましたが・・・。「川口虐殺糾弾・早稲田解放」の運動は、その後も大きなうねりとなって、全学的決起を呼び起こしたのですが、それは川口の死が党派闘争や内ゲバの結果起こったものではないという一証左ではないかと思います。
単なる内ゲバでは、あの様な全学的な運動にはなり得なかった筈です。しかも、前述した様に、中核派とは既に切れた一般学生だったのですから。しかし、その後のいろいろな報道や著述等には、川口の虐殺は党派間闘争である、内ゲバであるという表現が随所にみられます。これはとても残念なことであるとともに、是非とも真実を本当のことを、世間に訴えなければならないと思う次第です。