今思うこと 第一文学部1年J組 H・T

提供: 19721108
2017年9月10日 (日) 06:36時点におけるAd19721119 (トーク | 投稿記録)による版 (ページの作成:「:一度、妻を殴ったことがあります。三十歳を過ぎた頃、睡眠中に悪い夢を見たのです。カクマルに襲われた夢でした。反撃し...」)

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索
一度、妻を殴ったことがあります。三十歳を過ぎた頃、睡眠中に悪い夢を見たのです。カクマルに襲われた夢でした。反撃しようとして、隣に寝ていた妻を殴ってしまったのです。寝汗でぐっしょりになった身体を起して、必死に謝りました。カクマルとの対峙から十年近くが過ぎようとしていたのに、子どももできてサラリーマン生活に没頭していたはずなのに、そんな悪夢にうなされていたのです。
川口大三郎さんが殺された時、私は「1J」の学生でした。前年度、年額八万円から十二万円へという授業料の値上げに反対して闘ってくれた「2J」学友の多くは一年生の単位を落としていましたから、私たちは同じ教室で語学の授業を受けていたはずです。けれど、私に川口さんの記憶はありません。それどころか、殺されたという報道に接した時にまず思ったことは「早稲田でカクマルなんかに逆らったからいけないんだ」という冷たいものでした。
私の場合、高校生3年生の時に遭遇した「七十年安保」の闘いと挫折との傷跡が深く、一年間の浪人生活の後に合格した大学にも真面目には通えませんでした。同級のH君やY君が中心となった虐殺糾弾の動きにも即座に反応することはできませんでした。
そんな私でも、十一月二八日の学生大会には赤旗を掲げて参加し、その後のカクマルとの対峙にも積極的に加わるようになっていました。「手づくり自治会」というH君たちが掲げた理念に賛同するというよりも、人殺しのくせに居直り続けるカクマルを許せないという気持ちからでした。母校愛のない私でしたが「カクマルを早稲田から追い出したい」という思いは強まっていったのです。
けれど、結果として、早稲田を追い出されたのは「私たち」でした。最も果敢に闘った「学友」たちは早稲田を去っていきましたし、私のように姑息に単位を取って卒業した者もいます。私たちの運動が終息するにつれて、カクマル対中核派および解放派との党派抗争は苛烈を極め、第一学生会館屋上の見張り小屋で襲撃に備えるカクマルには「一般学生」を相手にする余裕がなくなり、彼らの目を盗んでは授業にもぐりこむことができたからでした。
警察白書から党派抗争での死者数を拾ってみると、一九七二年の死者は川口大三郎を含めて二名(連合赤軍のリンチ殺人十二名を除く)。虐殺糾弾闘争が行われていた翌七三年も二名。ところが早稲田が静かになった七四年は十一名、七五年は二十名。七六年は三名と減っても、七七年は十名、七八年は七名、七九年は八名、八〇年も八名と増え続けました。最終的には百名を超える死者の山を築く戦争状態が続き、二〇十一年一月六日「マッチャン」の自死を迎えることになります。
ずっと後になって松崎さんの死を知った私は「闘いは、こんな形で終ったのだな」と思いました。こんな書き方をすれば、川口さんの死と、それに続いた私たちの運動は党派闘争の一環としてあったと考えているのかと誤解を招いてしまうかもしれません。事実、川口さんの死に対しては、良心的な立場からでも、そういう「評価」がネット上では為されています。でも、そうではないのです、絶対に。
川口さんの死は党派闘争の延長上にあったのではなく、早稲田大学の日常が呼び寄せたものでした。村井資長総長を筆頭に大学当局は、外部に党派抗争があって、それが大学内部にもたらされた結果が川口さんの死であり、大学もまた被害者なのだという立場を喧伝しました。それは大嘘で、学生を管理・支配するためにカクマルと共存関係にあった大学当局(の立場)が川口さんを殺したのです。
川口大三郎の死は「内ゲバ」の延長上にあったのではないし、ましてや党派間の殺し合いの発火点ではありませんでした。私たちの「運動」も党派闘争とは無縁のものでした、少なくとも理念としては。
その後も、早稲田大学当局とカクマルとの蜜月は一九九六年まで続いたようです。この間に莫大な金額(九〇年代には年間二億円とも言われる)が大学からカクマルへと流れ、ストで期末試験がなくなるために学生からは緊張感が失われてしまったようです。卒業生の質は低下し、かつては日本でいちばん受験生を集めていたのに、明治に抜かれ、近畿大学にも抜かれる始末です。
歴史に「もし」はないと言われます。でも、もし「あの時」大学当局が、カクマルではなく、私たち「一般学生」の側に寄り添ってくれたなら、百人を超える戦死者が出ることはなかっただろうし、早稲田大学にも今日のテイタラクはなかったはずです。愛校心のない私でも、それだけは残念に思います。
殆ど授業に出ることもなく、それでも五年かかって卒業した私は、人も羨む企業に就職することができました。それは早稲田卒の肩書きがあったからこそ可能だったのであり、その限りではワセダに恩義を感じているからです。わずか十年で退社した理由の一つには、カクマルとの闘いの残滓というか余韻が関係していたのは事実ですし、余分に払った五年目の授業料だけは返還してほしいと思うのですが……(続く)