「息子を惨殺した犯人へ憎しみをこめて綴る…」(母)

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(前略)
9年前、夫が膵臓ガンで他界してから、私は3人の子供たちを、伊東市の競輪場の会計の仕事と、保険の外交の二つの仕事で育ててきました。私は、知らぬ人の前で話をするのがキライな性質で、保険の外交は4年ぐらいで辞めましたが、競輪の会計の仕事は今年で19年になります。(注:月に1週間働いて2万円)
正式にどこかへ勤めれば収入はいいのですが、それでは子供を見る時間がないし、子供たちが学校へ行っている間、仕事をしたかったからです。姉の三枝子が高校2年、兄の正人が中3、大三郎が小学校6年生という、いちばんむずかしい年ごろでした。しかし、私は貧しくても、片親だけでも、明るく育てたかったのです。
で、〈らしく主義〉を教育方針にしました。男は男らしく、女は女らしくがいちばん大事だと、子供たちに言って聞かせたのです。大三郎にも、“男らしく、男がいったん口から出した以上、責任をもて”、“〈らしく〉の本分を守りなさい”というのが私の口ぐせでした。
そうした甲斐もあってか、あの子は一口に言えば、骨のある明治の人間のように育ちました。いえ、育ったように見えました。義理、人情を重んじ、情緒豊かで、先生や目上の人への態度も、現代っ子の多いこの世の中には珍しく折り目正しい子でした。要領よく世の中を泳ぐのはきらいな子でした。
…私たち夫婦が伊東にきたのは、終戦の半年前、それまで住んでいた東京の家が戦災で焼けたからでした。伊東は子供を育てるのに格好の自然がありましたが、文化の面では比較的遅れていました。
ですから、私は大三郎には幼いころから東京のY M C Aで水泳を習わせたり、市谷のユースホステルに泊まることを教えたりしました。ユースホステルでは母と子は別々に寝なければならないし、自立心を養う点でいい訓練になると思ったからです。
3人の子供はどの子もかわいいけれども、大ちゃん(注:大三郎君)とは趣味が同じで、よく気が合いました。成長してからは、親子というより、一個の人間として、友だちのような関係だったと思います。あの子は小学生のころ、勉強のほうはいつも首席でしたが体が弱く、それが心配で、運動をさせるため、よく山へ連れて行きました。“踊り子コース”や伊豆の山などいっしょに歩いたものです。
中学に入るとバレーボールを始め、それからカゼひとつ引かなくなりました。友だちが多く、色白なものですから“ダイコン”とアダ名で呼ばれていました。県立伊東高校へ進み、3年間無遅刻。高校ではもっぱら山登りで、山岳部の部長をしていました。3年生になってはじめて受験勉強らしいものをはじめました。いつも明るくワアワア騒いでいて、ガリ勉じゃなかったのです。
早稲田大学の文学部を選んだのは、ジャーナリストになって、ペンの力で社会の悪と闘おうと思ったからでした。高校の担任の先生が慶応出身で、慶応へ行けとすすめられたのですが、慶応はブルジョア学校だし、国立大学を出ても、オレは官僚になるのはイヤだからと言って、早大出身者にジャーナリストが多いのに目をつけ、早稲田精神にほれて入学したのです。
早大へ入るときも、「私立は金がかかるけど、早稲田でもいいか。お母さん、入学金だけ出しておくれ」って気を使う子でした。この夏帰省したときも大学の授業料の請求書をみて「それちょうだいよ。ボク、金を貯めてあるんだよ」と、そんなお金が無いくせに、私に心配をかけないように言うんです。大学へは川崎の姉の家に下宿して通っていました。
三枝子の嫁ぎ先が土建屋なものですから、トラックの運転をしてアルバイトしていました。それと、育英会、駿河銀行の奨学金を学費に当てていたのです。
大ちゃんは、ヒマができると、アルバイトして山へ行っていました。死ぬ数日前、「11月11日ごろ、天城へ友だち3人連れてゆくから寄るよ」と、電話があったばかりでしたのに……。10月23日から3日間帰省したとき、たまたま兄姉3人が集まったのです。そのとき、大ちゃんは、「母さん、黒ビールなら飲めるだろう」と、伊東の街で買って来て、親子4人で12時過ぎまで騒ぎました。それが最後になりました。
1カ月前、あの子が山からくれた絵ハガキがあります。
「前略。オフクロ様。
お宅の息子さんは、今、北アルプスに来ております。
上高地、小梨平キャンプ場にて、これを書いています。
なんせ、窮屈でして、文字も乱雑になりますが、御了承下さい。
そのうち、帰るかもしれないからヨロシク。
まあ、とにかく、行って来らあ。では、しばしの間、バイバイ。
  追伸
 今日は非常にブラックが旨い。ウイー!
 川口サト様
 トラ子
 チビタン子
小梨平にて やくざな息子より」
あの日以来、何回読み直したことでしょう。そのたびに幼い日の大ちゃんが思い出されて、ひとり泣くのです。
棺の中に横たわっていた大ちゃんの顔には、解剖で縫合された傷あとが生々しく残っていました。あの明るい笑顔はもう見られない。こんな残酷なことがあるでしょうか。
明るい子でした。家へ帰るとお風呂に入ってハナ歌で“人生劇場”を歌っていました。天地真理の愛くるしい顔が好きだったようです。「そのうちオフクロがビックリするようないい娘を連れてくるよ」と、私を笑わせていました。帰省するたびに「“オバンツ”(注:伊豆の方言でおばあさんのこと)がグズグズいうから面倒みてやらねばならん」といって、女手ではできない家の修理や、茶の木の手入れをよくしてくれました。縁側の日なたで、好きな本をよく読んでいました。北杜夫や新田次郎の小説や、「山と渓谷」などが愛読書でした。この前、帰って来たときは、私に「これ読んだら」と、北山修の『戦争を知らない子供たち』を置いて行きました。
あの子は、動物をかわいがるやさしい子でした。また“長いものに巻かれろ、クサイものにはフタ”というのが大きらいでした。早大に入ってから原爆被災者の話などについて、よく話し、「自分だけが幸福になっても、ダメなんだよ、もっと多くの人が幸せにならなくては……母さん、もう少し目ざめなければならんよ」と、言うようになりました。が、あの子に関しては、何一つ心配がありませんでした。
姉の三枝子も、「大ちゃんは、私の弟だけれど、内心尊敬していたし、どこか寄りかかっていた感じ」というくらい、シンのしっかりしていた子でしたから。
ジャーナリスト志望だった大三郎は、入学後まもなく「早稲田学生新聞」に入りました。46年6月5日付の“学生新聞”にあの子の早慶戦観戦記がのっています。
「若き血も、完全燃焼しないままもえつきてしまった…。
たそがれせまるなか、友と肩を組んで校歌を歌う。そこには“ワセダ”があり、“伝統”が生きている…」
でも、あの子が、あんなに若き情熱を燃やした早大も、2年生になってから、学内の暴力の存在を知って、急速に失望していったようです。そのうちに「大学なんて、どこでも同じだよ」と言いだしました。大学の友だちにはキャンパスの芝生の上に寝ころがって
「魚屋かスシ屋にでもなりたい」と、もらしていたそうです。
それでも、私には心配をかけまいと思ってか“大学が暴力の巣だ”とは言いませんでした。
私は、暴力が渦巻く内情を余りにも知らなすぎました。そんなことが初めからわかっていれば、息子がどんなに志望しても、早大にはやりませんでしたのに…。
いちばん、くやしいのは、あの子が新聞で“中核派のスパイ”だと報道されたことです。私の息子は、一般学生も証明しているように、完全なノン・セクトです。ただ、正義感の強い大ちゃんのことだから、言論の自由ということで、自分の思うことを主張していたのだと思います。
“革マル”が、中核派のスパイだと睨んだのは、平和運動、原爆被災などをあの子がやっていたからでしょう。それが、この問題にあまり熱心でない“革マル”の怒りを買ったのでしょう。
「大三郎君を“中核派”の同盟員に誘ったけど、なかなか首をタテに振らなかった。もし、入っていたら、われわれの力で保護できたものを…」
お通夜の席で“中核派”の人が、こう言うのです。
いまさら何を言ったって息子は帰ってきません。それより“中核”だ、“革マル”だと、大三郎の死を政治団体に利用してほしくない気持ちでいっぱいです。
かりに、早大から“革マル”を追い出しても、それに代わるものが来ては同じです。それでは、暴力を憎んでいた大三郎の主旨に反します。大学は静かに学問するところ。どだい、人間の命を大切にできないものが、世の中を変革するなどというのが、おかしいのです。
「教室を見にいったが、何の異状もなかった。だから、大学の上層部はこんなことになるとは思っても見なかった…今後は、こういうことを起こしません」
--どんな理由があって、自治会室には学校側が入れないのですか。
「自治会室には入れないことになっているんです」
--それでは、自治会室の中で何があってもわからないのですか。
「何もしないでいたのではなく“革マル”のピケ隊がいて入れなかった…」
これは、お通夜の席に見えた、早稲田の村井総長と私とのやりとりです。で、これだけ言うと、総長はわずか5分間でそそくさと帰られました。
大学当局は、問題を“学生の自治”で逃げようとしている。しかし、その後、一般学生に“革マル派”の学生が取り囲まれると、大学当局は“革マル”の救出に乗り出したりしています。まったく矛盾した話です。
暴力--といっても、だんだん話を聞いていくと、私たちの考えているような暴力ではないではないですか。
少しでも“革マル”の批判をすると、部屋をメチャクチャにこわす、リンチをする、あげくの果ては、殺人までおかす……こんな残酷な事件が、学校の外で起きたのではなく、学問の場で行なわれているのです。
それを大事な子弟をあずかる大学当局が放置してきたと言われても仕方がないではありませんか。私は、何かわからない怒りで、胸の中がたぎるような思いでした。
もし、大学当局が、あくまで、大三郎の死は、内ゲバだから……という片づけかたをするのなら、息子の死をウヤムヤにすることなく、私は、大学当局を訴えるつもりです。
学校内部には、いろいろ複雑な問題もありましょうが、単に、理事者や2人の文学部長が辞任して片づく問題ではないでしょう。あくまで、大学当局、その最高責任者である総長に責任ある釈明を求めます。(後略)
(女性自身1972年12月9日号P143~147掲載)