「彼独自の早稲田魂は永遠に都の西北早稲田の杜に生き続ける」(早稲田精神昂揚会)

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初めに、川口君の御不幸に対して慎んで哀悼の意を表すと共に御冥福を御祈り致します。
川口君との最初の出合いは2年前の9月末頃だったと思います。彼が「早稲田精神昂揚会」に入会したいと言って、私に面会を求めて来た時でした。私の説明は、「この会は入る者拒まず、去る者追わずといった自然な雰囲気だから、思想的に特に偏向がない限り、何処までもリベラルに活動できる」と、以上のようなことと会の設立趣意などを話し、理解してもらったように記憶しています。
今もその日の事を思い出しながら脳裏を去来するのは、凜乎とした容貌に笑いを混じえながら熱心に話を聞いている様子です。「人生劇場」におそらく魅せられたのでしょうか、その日の彼は下駄履に学生服というバンカラな恰好でした。衿のホックをはめ忘れたらしく、はずしたままでしたが、一年生だった当時の彼の勇躍逸んだ衒気というか元気が彷彿してきます。才気煥発の片鱗を覗かせながら、素直に色々な意見を吐いていました。
私が彼に「君は将来、何を志望しているか」と訊くと、即座に「新聞記者になりたい。そして、後に政界で活躍するつもりだ」と自信に満ちた声が返ってきました。彼の政治に対する熱意は、かなり具体性を伴うものであることは後で分ったことでしたが、その時は、今時、それも入学したばかりの1年生がよくもはっきりと此様なことが言えると喫驚すると同時に、頼もしさを感じたものでした。
入学後の彼は新入生ながら夏休み明けに入って来た、言わば新参者だったのですが、同じ1年生の中でも、早く入会していた者よりも一際目立った存在でした。
この会では、週1回例会といって会名通り早稲田精神について、大学の建学の趣旨に深い影響を及ぼした大隈重信候や、小野梓先生等の文献を参考にして討論することを主な目的とした場が設けてあります。
川口君も、アルバイトやその他の事情で多忙だったにもかかわらず、必ずといっていい程、出席していました。例会に於ける彼の活動というものは、まさに悍馬であり、討論する場合にもよく詳細にメモした手帳を取り出しては、具体例を引き歯に衣をきせぬ舌鋒を以って我々を度々圧倒したこともありました。彼の存在は例会を自然に盛り上がらせる効果をもち、時として喧々ごうごうの大激論へと発展したこともありました。
討論の中でも、是々非々を弁えた彼の謙虚な姿勢も充分窺りきるものでしたが、現状の中に絶えず問題を抱えていた彼には、いつまでたってもなかなか結論を導き出すことのできない、座して論ずることへの不満と焦燥が相錯綜して止まず、会にとどまることは苦痛で、しかも潔としなかったに違いなかったのだと思います。
奔馬は我々の手綱を断切り、ついに袂を分かたねばならぬ時がやってきたのでした。その日は、大学授業料値上げが当局によって示されたことに対する彼の生来の正義感が湧き出た時でした。私はそれ以来彼の顔を二度と見ることはなかったのであります。
我々の会に集う者は、皆個性豊かな人間味溢れる人間であると自負していますが、川口君もその一人でした。我々の母校早稲田大学は、自由と独立の為に権威に屈することなく果敢に闘ってきた建学以来の生々しき歴史を有しています。そこの中で培われたものが後に在野の精神、反骨の精神と呼ばれる早稲田魂というものです。
併し、残念ながら現在の学生には建学の精神とか大学の歴史などに親しむ者も少なく、認識していないからそれでは困るということで、由緒あり歴史ある大学で学べることを真に喜びとして受けとめ、そして良き校風を継承すべきであるとし、又社会に出てもその中で学び取ったものをより良く活かしていこうといって設立されたのが私達の会なのです。
併し、そうしたこととは裏腹に、現実の早稲田大学は、今更云わずもがなでありますが、一大汚点を90年の歴史の中に残してしまいました。大学の衰退は今始まったことではないのですが、稲風をなんとか刷新せんとする中でもとりわけ先頭に立って戦闘的に実行した川口君が、一時期とはいえ私達の会に在籍していたということは真に悲劇と云わざるを得ず、我々の努力の及ばざるを恥じ、厳粛に猛省して更に運動を強力に推進していくことを誓いたいと思います。
また、90年の歴史に汚点を残したと云いましたが、それ以上に我々が今再考しなければならないことは、信頼をきずなとする人間社会の中でお互いがお互いの人格を尊重し合い、且又、生命の何物にも増して重きものであるということであります。
それらは遍く大宇宙の真理であることを、それぞれの人が一個人の人間としてその持つ良識として再確認する必要があると思います。そして二度と同じ悲劇を同じ人間の手で繰り返さない為には、一人一人が現実の生活の中で己の身を以ってそれらのことを示していく努力が必要なことを痛感します。
昨今の風潮として一番気がかりなのは、やたらと他人に対してレッテルを貼ることで、他人の立場は勿論、己のそれまで狭めていることです。一面、川口君をあの様な不幸に追い込んだのも、このような事が誘因したのではないかと考えます。
激論を闘わせた後は爽快なもので、何杯も盃を重ね斗酒猶辞さず、宵の更けるのも忘れて大いに語らい、大いに歌い、酩酊して下宿に帰る途中道路に寝たこともありました。早稲田祭での呼物、壮士劇で名演技をした川口君はなかなか好評でした。また、100キロハイクでは鉢巻にハッピを着て、先頭でゴールへ着いた奮闘ぶり。また、或る日は大隈老候、小野梓先生の墓参に行き、帰りには上野を散策した愉快な想い出など、いろいろなことが走馬燈のように次から次へと浮かび上がってきます。彼と一緒に撮った写真も手元に残っていますが、今となっては去る日の感懐も筆舌には尽くしきれません。
私は、川口君亡き今、できることといえば彼の志がはからずも私の志と一にするものであり、彼の魂を微力ながらも受けつぎ実社会の中で活かしていくと肝に命じる覚悟でいます。
川口君は、こよなく母校早稲田を愛し、進取の気性溢れる行動中で燃焼していきました。確かに彼の最後は非命でしたが、断じてイデオロギーの犠牲者などではなく、信念を貫き通した人であり、彼独自の早稲田魂は永遠に都の西北早稲田の杜に生き続ける事を確信してペンを置きたいと思います。
(伊東高校山岳部OB会発行「川口大三郎遺稿集」掲載)