1973年1月20日(土)ロックアウト中の本部構内に突入。評価には賛否の声

提供: 19721108
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【概要】

前日午後11時の決定通り理工学部を除く全学部で休講となり構内はロックアウトとなった。教育学部では予定していた自治委員総会が開けず。早大学部長会・大学院委員会合同会で、22日からの期末試験対策が話し合われ、教職員による検問体制と学外者の立入禁止を決めた。午後2時過ぎ、正門前で集会を開いていた全自連のデモ隊60人が通用門から構内に入り正門を中から開け、一時400人余りが学内に入った。

【この日のできごと】

9:00 革マルは大隈講堂前で「反戦集会」の後、22号館ロビーに220人が旗竿などを持って集合。行動委とサ連に対して「解体宣言」。ノンヘルのテロ専門部隊がサ連メンバーを襲撃、2J学友の下宿への個人テロを画策した。
昼 全学部自治会連絡会議を構成する各学部自治会執行部・臨執は本部正門前で集会。200名が隊列を組んで正門横の通用門から構内に突入したが、この「突入」には全自連内に意見の食い違いが生じた。

【突入の評価】

20日の本部突入に関しては、後日、一文行動委連合(準)の名前で出されたビラに「20日、ロックアウト攻撃を粉砕し、本部前集会を克ち取る」という見出しで次のような記述がある。
「学友諸君、我々の連続した斗いに恐怖した当局は20日、理工を除く全学のロックアウトをもって我々の斗いを圧殺せんとした。しかしながら我々は、革マルの大隈講堂前での全員竹ザオ武装の敵対をはねかえし、正門前での全学的な集会を克ち取った後、行動委を先頭に本部キャンパスに突入した。一文臨執、そして各学部の学友もこれに続き、本部キャンパスは、圧倒的学友に埋めつくされたのだ。我々は20日のロックアウト攻撃を完全に粉砕した。」

【「桃色館」登場】

「早大で20日午後、学生約500人がロックアウトを破って突入、本部構内に一瞬緊張がただよったとき、突然、旧陸軍の軍服に戦闘帽、ゲートル姿の2人の男がなにやら大声でわめきながら構内を走りまわった。たちまちその回りに人がき。実は、早大の学生劇団『桃色館』のメンバーで、この日構内で上演予定の劇がロックアウトでだめになり、22日の再演を前に“デモ公演”=写真=したもの。女装の男も加わって、飛上がったり歌ったり。約十分間の“熱演”に見物の学生たちは笑いころげ、チリ紙に 包んだ十円玉や一円玉まで投げられた。『真面目な運動の最中に…』と非難する声もあったが、それまでのトゲトゲしい空気をふっとゆるめた一幕だった。」(1973年1月21日付朝日新聞)

【大学当局の広告】

22日からの期末試験実施にあたって大学当局は、前日21日の新聞各紙に大学名で広告を掲載した。
「早稲田大学の学生諸君へ
明22日(月)以降の授業および政・法・商など各学部の期末試験は予定どおり行います。ただし、学外者の立入りを禁止しますから本部および文学部の構内に入る際は、学生証の提示を求めます。学生証は必ず持参 して下さい。
なお、本部構内の出入は、正門のみとします。
昭和48年1月21日 早稲田大学」

【『一文有志の記録』から】

「20日。全学ロックアウト。H君来る。正門前で集会。こっちは5〜70人位でデモ。Zの私服部隊一杯。H君、千葉大のZにテロられる。ぼくは居なかったが、周囲の人間は彼を見殺しにする。通用門より、政経デモ隊はロックアウトを粉砕して入る。文もその後でためらっていたら(意志一致がされていなかったため)、まわりのヤジ馬『日和るのか』『やれ、つっこめ』 とかいってアオッておいて自分達は入らない。中で集会をやり、40分ほどで出てくる。大学は『不法侵入だから退去しなさい』などという。ナンセンス。解散してD組と合同討論。Zのレポがいてバショかえる。まあ、まあ。横の連帯の必要性を感じる。」

【リンク】

革マルの宗派的戒厳令を突破し、闘いの巨大な前進を! 一文行動委(準) 
革マルは滅亡寸前だ!
「個人テロはあたりまえだ」醜悪な居直りを繰り返す革マル