「川口君のくやしさ、苦痛を私たち自身のものとして」(早大2J)

提供: 19721108
2021年12月1日 (水) 11:09時点におけるAd19721114 (トーク | 投稿記録)による版

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索
昨年(昭47)11月8日、革マルによりリンチの末、虐殺されてしまった川口大三郎君。
あとわずかの日々で一周忌を迎えようとしている今日、私がいまだに深く心に残り、永久に忘れることのできない当日の印象は、俗っぽい言い方だが、「いい奴は、本当に早く死(殺)ぬものだなぁ」と、しみじみ考えさせられたことである。そして、その後の早稲田における運動経過を見ると、私は、革マルに対して、明日を思うことによる、ある種の絶望感と腹立たしい怒りを覚えます。それは「数時間に及ぶ陰惨なリンチ虐殺」「その後の革マルのデマと居直り」「新自治会員に対する無差別鉄パイプテロ」「当局と革マルの癒着に怒った学友に対する下宿テロ」「革マルによる川口君追悼集会」などです。
「ヨー!」。川口君の朝の出会い。ラフな軽装でいて、センスのよい、いつも明るい人柄だった川口君。
彼の入学時の印象は、何か庶民的な旧制学生気質みたいなものにあこがれているようだった。話しかけてみると、やはり「早稲田精神昂揚会」に入部していた。また、彼は、政治面、文化面にも強い関心と熱意をもっていました。それが将来のジャーナリストとしてのもう一方の「早稲田大学学生新聞会」への入部だったのです。
彼は、入学当時、庶民的な学生気質で、自分に誠実さ、人間味を養い、自分の考える方向でジャーナリストとしての仕事を責任をもってやりたかったのです。
私は、その後、川口君を「明るく、親しみのわく、希望に燃えた若者」「アルバイトしながら、毎日、元気に登校してくる意志の強い彼」として、親しい友人の一人になりました。川口君の、正義感が人一倍強い純粋な性質は、私だけでなく、クラスはもちろん川口君を知る人なら、だれでも認めるものです。
ある日、いつものように学校の授業終了後、喫茶店で雑談しているとき、「今、オレ学生新聞に入部しているが、合宿にも行ったが、キリスト教的な宗教面が強いんだ。宗教としてはよいんだが、全く個人としての社会的な行動性のないのが間違っていると思うんだ。この新聞会も、政治的な問題には全くタッチせず、文化面だけなんだよ。特に、新聞会の人の紹介で、原理研の世界基督教統一神霊協会の合宿に行ったが、宗教としては誤っていないと思うが、ただ神様について論じていても社会問題は何も解決しないと思うんだ。それを論じている間にも、部落問題、沖縄問題による犠牲者が続出しているのだから、犠牲者の気持ちを理解し、それを広く社会に呼びかけ、その力でもって、根本的に解決するように行動を起こさねばいけないと思う。君はどう考えるか」という内容を述べたことを記憶しているが。
私は「もちろん、川口の意見には賛成であるが、学生新聞会って勝共系じゃないのか。ある先輩に聞いたのだけれど、はっきりしたことじゃないか」と言いました。
すると彼は、「そうだとすると、俺と考え方が違うな。俺も将来、ジャーナリストになりたいため、新聞会に入部して、その方面の学習をするつもりだったが、よく考えてみることにするよ」と述べたことも、はっきり覚えています。その後、7月下旬頃、新聞会にはもう出入りしていなかったようでした。
彼は、入学時から、ヒマがあればアルバイトをし、そのアルバイトで親からの負担をなくし、又、自分の好きな登山用具などを神田、早稲田近辺のスポーツ屋で買物などをし、よく私もつき合わせられました。「◯月◯日から一週間~岳に登るんだ。かせがなきゃ」。彼の山好きはクラスで有名で、登校するときは「山と渓谷」という雑誌を必ずたずさえていました。
私が、ある日「『山』もいいけれど、社会的、政治的なこととは両立しないんじゃないか」と彼に言ったことがあるが。
彼曰く、「君は『山』が何者かわかっておらん。広大で、美しい無限の自然、それは厳しいものなのだ。そんな山を見、一歩一歩すすんでゆく自分が、ひどくちっぽけであり、同時に自分の存在、自分の義務、責任といったものが、はっきり自覚できるんだ。たしかに君の言ったことはわかるが、そのためにも俺はもっともっと強くならなければならないのだ」。
夏休みは勿論、彼は、日さえ空いていれば大体アルバイトである。土木関係のアルバイトのため、車の免許証もとり、親戚の家で年間を通じて仕事をやり、学校と両立させていました。精いっぱいアルバイトをし、精いっぱい「山」に登り、登校し、同時に他の人々の気持を充分理解し、その社会的な己の責任というものを決して忘れたことのなかった川口君。
「働いている人が一番きれいなのだ。一生懸命生きようとしている人がきれいなのだ。だから、働く人の社会にしなければならない。これが本当のきれいな社会なのだ。そこには、同時に人間的な相互の連帯、思いやり、愛が生まれるのだ。そこには、人間同士の差別、抑圧、疎外も生まれないんだ」とも述べていました。
こういった川口君に大きく問題となったのが、昭和47年(川口君1年生)1月、2月、3月の来年度入学者からの学費値上げ反対闘争であった。
この問題で、彼は、クラス討論をすすんで呼びかけ、
「当局の無責任な学費値上げは、学生、父兄にますます負担をかけることになる。これは教育の機会均等からも大きな誤りであり、昔のように『金持ち』でなけりゃ、大学へ行き学問ができなくなり、大学の社会性からも大きな問題である。学問をしたい者は、だれでも大学で学べ、大学をもっと大衆的なものにしなければならない。当局が『赤字』であるとするなら、その事実を明らかにするべきだ。たとえ『赤字』だから止むを得ないというわけでもないが、とにかく我々1年J組としては、クラスで仕事を分担して、その値上げの背景をしらべ上げ、それをもって大学当局を追及すべきである」という提案をしました。
もちろん、川口君の提案は可決され、クラス全体で各調査をはじめることになった。
それを少し述べますと、
1.本庄セミナーへ行き、そこに広々とした早稲田大学の敷地があることを知り、その近所の不動産屋をたずね、その時価をきき、その総額を計算した班。
2.各大学を訪れ、各大学の経理調査をし、年齢別、教授給料をも調べ、各大学の出費の比較を行なった班。
3.中教審路線の教育構想とその権力のねらいを調べる班。
4.学費値上げと社会的諸物価とのつり合いに関する経済資料作成班など。
その後、各班の調査結果をもちより、数度のクラス討論を行ないました。その間に、大学当局による大衆団交が、大隈講堂で行なわれました。
このことに関して、クラス及び川口君の結論は、「この授業料値上げは、イデオロギー闘争ではない。私たち自身の問題であり、大学の今後の方向性、大学の社会的あり方にもかかわる重大な問題である。大衆団交における革マル系は、何ら具体的な調査、事実を示さず、ただ白紙撤回のみ叫んでも空叫びで、団交においては無意味である。この問題は、私たち自身に大きく関係してくるもので、その大切な団交において各クラス、各サークルでの討論の結果を発表し、当局を追及していかねばならないものである。会場の前壇を革マルが占拠し、早稲田の学生の意見を発表させることすらなく、革マルだけの団交に終ったようである。私たちのクラスの成果はもちろん、他のクラス、サークルの統一声明すら何も発表できず、当局に、真に我々早大生の声を聞かせることができなかった。こういった革マル式団交では、絶対に勝利できない。以上の原因で団交は敗北してしまったが、私たちは、今年入学してくる1年生に強くよびかけ、多くの学友の力で闘い、勝利するまでがんばろう」という主旨の内容であった。
また、川口君はこの問題に関して「早稲田精神昂揚会」においても、ただ一人、先輩達に反論している事実があります。これは、彼が喫茶店で私に述べたものです。
「本当の早稲田精神とは、早稲田大学にあるのではなく、早稲田という長く人々に浸透し、つくり上げられた人間味、泥臭さにあるのであり、それは、そこに集い、学び、己の中に浸透したものである。だからこの授業料値上げは、早稲田を「ぼっちゃん学校」にしてしまい、真に学問をしたいという人々が早稲田に集まらなくなる。そこにおいては、全く早稲田精神は撲滅してしまう」と、一人で反論し「本当に早稲田を慕っているなら、値上げされても金に関係なく入学してくるものだ」という先輩たちに対抗したのであった。
その後、彼は「ある言葉」を私に述べ、退部しました。
川口君をはじめ、私たちのクラスは全員2年生に進級しました。
2年生以後の川口君は、老人問題、身体障害者問題、狭山差別問題という社会における疎外・差別というものに強い関心をもちはじめました。それは、川口君の呼びかけで、この種のクラス討論が多くなり、特に「狭山差別裁判」に対して熱心な意見を述べていました。
「狭山裁判により、無実の人、石川さんが部落民だというだけで死刑にされようとしている。この差別問題は、同情で何も解決できず、それではますます差別を生む結果になる。私たちの『内なる差別観念』をはっきり見つけ出し、それと闘っていかなければならない。まず、この顕著な例として、狭山裁判の歴史と現代の経過をB君に説明してもらって、私たちの中の差別というものを、日常の言葉・動作の中に追及してみよう」という主旨の提案を行った。
また、川口君は老人問題、身体障害者問題についても現状を訴え、理路整然と熱意ある態度で、クラスの人たちに問題を提起しました。
己の生活と学業を両立させ、社会に負けることなく独力でがんばり、しかも、人間に対しての愛は決してゆらぐことなく、絶えず「社会的、又、すべてのものから疎外・抑圧されている人たちの気持は、自分がその人の気持になってみようとしなければわからない」という一本の信条みたいなものが、川口君の体中に深く流れていたようです。
即ち彼は、この私たちの身近な差別の実態の一つを狭山裁判に見、クラスに、即ち大学という広場にもち帰り、大学の社会的な存在意義と現代における歪曲性、偏狭性を大学という大衆に問い直そうとしたのである。このことが、川口君の場合、同時に自己に対する検証、内なる潜在的差別意識への闘い、革命だったのだろうと考えます。
この時分の川口君は、「狭山差別裁判」の公判闘争には、個人で参加していました。純粋で、人一倍正義感の強い川口君にとって、この狭山裁判は許せなかったのでしょう。
2年の夏休み。
彼には、「山」という友と、アルバイトが毎日で、土木関係の仕事で汗びっしょりでした。でも彼は、夏休み明けには、元気な明るい表情で登校してきました。
10月に入り、私たちのクラスでは、いろんな社会問題についての討論会をおこないました。川口君ももちろん出席し、誠意ある態度で問題点を的確に指摘してきました。彼の意見はクラス全体でも、全面的に支持されました。
10月中旬頃、大学近くの喫茶店で川口君と談笑しているとき、「11月10日~11月20日頃まで、クラスのC君と一緒に『山』へ登るんだ」と言っていました。
そのような彼、その彼が……。
11月8日、正午すぎに登校して文学部キャンパスにある部室前で談笑しているとき、数人の革マル自治会執行部により、自治会室に拉致されたのです。
翌朝、東大病院の前に50数カ所に及ぶ青じみた痕跡を身体中に残し放置されていたのです。
詳しい事実は11.8の事実経過に詳しく記せられています。
このような残虐な殺し方をした革マル。
死を覚悟しながら自分の意志を主張しつづけた川口君! このデマとギマンに満ちた革マルが、なんとハレンチにも「11.8川口君追悼集会」なるものを行なおうとしています。卑劣きわまりないリンチでなぶり殺し、何ら正当性のない革マルが、一周忌で川口君が再びよみがえるという日、川口君を虐殺した手で「川口君追悼集会」をやるというのである。
「川口君を何度殺すつもりなのか。差別をにくみ、人間の解放をめざし闘おうとしていた川口君にとって、革マルにより殺害されるといったことが、どんなにくやしく、むなしかったであろうか。この川口君を、又もや殺す気なのであろうか」
私は、彼の友人として、又、彼が正義であるとして、このハレンチきわまりない追悼集会と革マルの政治主義を許すことができないという怒りが、私の胸につき上げてきます。
まだ「川口君という人間」を描き足りませんが、「山をこよなく愛した川口君という20才の若者」を的確に理解され、川口君のくやしさ、苦痛を私たち自身のものとして受け入れ、正義ある、人間味のある連帯を寄せられるよう訴えます。
(「声なき絶叫」掲載)