「あんなに明るくて、タフでサッパリした川口を殺したやつは許せない」(早大2J)

提供: 19721108
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川口の顔と名前が一致したのは、一年生の半ばを過ぎてからだった。川口とは飲んだこともないし、一緒にどこかへ遊びに出かけたこともなかった。ただ、川口と僕が共に関心を持っていた部落問題、とりわけ狭山差別裁判を通じて接近しただけだった。川口と僕は部落解放運動の捉え方、狭山差別裁判糾弾の戦略の問題等で意見はかなり異なったし、対立もした。けれど、今、それはそれとして共に闘った中での川口らしいエピソードを話してみたい。
川口が、狭山差別裁判の公判闘争へ参加したのは去年の2月からだったと思う。2月、4月、6月、7月、8月、9月と闘争に参加し、11月の「一定段階の勝利」の最中、革マルに虐殺された。いつだったか、川口がデモの指揮をしたことがある。暑い日だった。デモの隊列はわずか10人足らず。それでも川口は一所懸命指揮をした。100人、200人といった大隊列の合い間をぬって、我らが隊列は走り回った。川口は山男でタフガイだからいいが、我々は途中で息切れがしたり、腰が痛くなったりでヒイヒイ言いつつ、川口の指揮でデモり続けた。あんな走りづめのデモ指揮をやれるのは川口ぐらいだったろう。川口は闘争の時は厳しい。「デモはつらい。けれど獄中の石川氏はもっと、もっとつらいんだ」そう言う川口は厳しかった。
6月公判闘争だったと思う。公判が午前中で終わり、闘争も早く終わり、川口と僕、そしてあと数人で総括なるものをやっていた。土曜の午後。場所は日比谷公園。我々の円陣の周囲にもアベックが増えてきた。総括を終えたあと、やおら川口のリードでシュプレヒコールをやった。アベックの連中驚いていたが、おかまいなしにやってのけた。そしてインター、ワルシャワ労働歌を歌って我々も解散した。川口は少しも恥かしがらずアベック達の真ん中でリードし続けた。
川口がいなかったら誰もそんなことをしなかったろう。
川口はエネルギッシュに活動した。川口が狭山闘争に関わり出してから、革マルに虐殺されるまで10ヶ月にも満たない。川口はその10ヶ月足らずを狭山闘争に捧げた。徹夜でパンフを作りもした。学習もした。他の闘争にも参加した。
江戸時代、部落民一人の生命は平民の7分の1とされた例がある。川口は、この事実を本で読んでおこった。本当に、心から川口はおこった。
72年11月。狭山闘争が「一定段階の勝利」を得、まさにこれからという時、川口は革マルに虐殺された。川口を虐殺する理由がどこにあったのだ。中核派のスパイだとか、いいかげんにしろ。「革命的マルクス主義」がどうとかこうとか、口先の小むつかしいことは知らない。僕は川口を虐殺した革マルを何時までも怨み続ける。暴力に表面は屈しても、必ず革マルを怨みぬく。あんなに明るくて、タフでサッパリした川口を殺したやつは許せない。
嗚呼 友愛の熱き血を
結ぶ我らが団結の
力はやがて憂いなき
全人類の祝福を
飾る未来の建設に
殉義の星と輝かん
(解放歌7節)
※運動中50年間歌われ続けた唄
川口が虐殺されて1年たつ今秋、狭山公判は再開される。川口は狭山闘争勝利の報を今か今かと待っていることだろう。
(伊東高校山岳部OB会発行「川口大三郎遺稿集」掲載)